awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫(うつし)から…

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「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」でございます。

天石門別八倉比賣神社は天石門別豊玉比賣神社とか書いて投稿していましたが、たまには趣向を変えて別の伝承をご紹介しようかなと思いまして。

 

念のために先に書いておきますが、「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」は「天石門別八倉比賣大神御本記」と同じ内容ですので悪しからず。

あと、ウィークデーということで翻訳して直ちに入力する気力は全くありませんでしたが、そんなタイミングであら不思議。ぐーたらさんが御本記を翻訳していました。こんな良い翻訳を借りない手はありません。ちゃっかり拝借させて頂きました。それでは参りましょうw

 

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古(いにしえ)天地(あめつち)の初めの時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申す。
次に国ができてから間もなく、浮き脂のようにただよえる時に生まれた神を、その形が抽葦(あしかい)の牙(もえいずる)ごとき(様の)神で、國常立尊(くにのとこたちのみこと)という。

その後にも、神が生まれられた。伊邪那岐神(いざなぎのかみ)次に妹(いも)伊邪那美神(いざなみのかみ)。この二柱(ふたはしら)の神は国、海原と山川、諸々の神を産まれた後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日孁大神(ひるめのおおかみ)という。

 

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これが八倉乃日孁大神(やくらのひめおおかみ)である。
最初(いやはじめ)高天原で戦に備えた後、天石門別の神に勅(みことのり)を発して今より後、汝ら我に代わって戦に備えよ。また、これは羽々矢(ははや)である、この御弓を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持ち降りて、よき地に奉り蔵(おさ)めよと言われた。
永く爾莫用(なつかいそね)と賜りき。(高天原に還ってこの国に長く留まってはならない)われ(八倉乃日孁大神)もまた天より降りてきて、天の羽々矢(あめのははや)と天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)を納めるのによき所だと言われた。そのため二柱の神、高天原よりこの弓矢を持ち降りたまわれた。その時、二柱の神は天の中空に立って、この矢が落ちたところに蔵(おさ)めなさいと言って矢を放ち、落ちたところを矢達の丘という。(今は矢陀羅尾という)そのため、二柱の神、この地に矢が落ちた事を覚えておくために、広く知らしめたので、その地を矢乃野(やのの)という。
その矢を持ち帰って永く奉って、納めた所を矢乃御倉(やのみくら)という。その弓を奉りて納めた地を弓乃御倉(ゆみのみくら)という(今は「ゆの丸」という)。
そしてその後、二柱の神この地に留って(松熊二前の神はこれである)御矢倉と御弓を守られた。

 

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その後、比賣大神(ひめおおかみ)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天より降りられた。最初は杉の小川の清き流れを覧になって、この川の水は深いが大変早いと申された。その所を早渕の村という。ときに、大地主神(土宮のこと)と木股神(御井神のこと)が参り、この河の魚を漁って献上した。大神の言われるには鰭(はた)の狭物と言うべき食物であるので、その河を鮎喰川という。
時に大地主(おおつちぬし)と木股神に言われた。わたしはどこに住むべきであろうか。あなたがたよい所に案内しなさい。大地主神が答えて、ここより西の方、朝日がまっすぐに刺す山、夕日の日が照る気延の嶺があります。先導しますので、その地に行っていただけるようお願いいたします。

時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦(多くの小竹をいう)、八十玉籖(玉串のこと)などいろいろ御幣る(たてまつる)。

 

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これより西の方の杉の小山の麓にたどりついたとき、石門別神が迎えられて礼を尽くされた。大神の言うには、あなたたちは私が言ったようにして、私を待っていましたか。
(その問いには)ここは前の神宣(みことのり)のように、御矢を納めたところであると答えた。そのため(自分の申し付けていたようにしていたため)大神は非常にほめたたえてこの地に一晩泊まってから(このため矢倉の郷という、また屋度利の社という)山坂を登って、杉の小山を通り気延の山に到る。
時に広浜の神が現れて時節(ときふし)の御衣を献上した。その地を御衣足(みぞたり、または御衣谷)という。
すぐに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と太敷を立て、高天原にいた様子を装い、天上のように祀り鎮座する。(天石門押し開くため、天石門別という。八倉の郷に居る姫御神であるために八倉比売という)
この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(うたげ)を行う。その神々の集った所を喜多志嶺(きたしみね)という。その宴(うたげ)に使ったいろいろな物を納めた所を加久志の谷(かくしのたに)という。

 

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大神が(歌を)詠むには、
「雲の居る八倉の郷の喜延山 下津岩根に宮井そめとも…」
この後、大泉神が申し上げて、天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。また小泉の神、田口の御田を献上して、御饌乃御田(みけのみた)とする。
しかし後、二千百五年を経て小治田の御世、元年龝(あき)八月に、大神は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して言うには、わたしの宮のある場所は、はるかに高く急峻である。このために神主や祝部、巫(みこ)など、多くの若い人でも参詣するのに疲れてしまうだろう。杉の小山は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない正によい所である。かの嶺に遷(うつ)りましょう。

大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は諸々の邪鬼、妖怪および諸々の病を厭(まじのう)に奇(くしひ)に妙なる験(しるし)と教え諭し賜ひき。赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。

 

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その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という(また御石ノ峯とも言う)。
時に神主、祝部らは、大神のおっしゃるように(宮を)遷したてまつる。されとも霊験が無ければ諸々の人々は(大神の事を)信じないでしょう、どういたしましょうかと申し上げた。その時大神はそうであろうとおっしゃられた。そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)
神主、祝部や多くの若者がその神宣の明らかである事を敬って杉の小山に宮柱太を知り立て高天原の千木(ちぎ)高知りて、天の御蔭、日の御蔭と永く隠しまして國家の大基(おおもと)を守護なされるという。
宮を移されたのが九月十三日、このためにこの日を以って御霊の現れし日として奉るのである。

 

はい。ただぐーたらさんが苦労して翻訳した内容をコピペしただけではただのパクリ野郎になってしまいます。よって少し情報を付け足してみました。

 

矢野村は神代の昔に天照大御神須佐之男命の暴悪を防ごうと背に千の箭(や)入れた靭(うつぼ)と五百の箭を入れた靭を用意し、自らも武装して須佐之男命を待ち構えた場所である。

須佐之男命は天照大御神の意思に驚き、争いの意思が無いこと示した。天照大御神はそれを受け入れたが須佐之男命の暴悪な行動は治まることは無く、さらに激しさを増した。これを嘆いた天照大御神は天窟に入ったために常闇の昼夜がない世界となってしまった。

八百万の神はこれに憂いて天八湍河原に集まり思慮した。思兼神の思慮により神楽を奏上し、天鈿女神の歌と舞に大御神が磐戸の扉を少し開いた。その際に天手力男神が大御神の手を引き出し奉わり、世界は元に戻ったという。その騒動から須佐之男命は改心した。

その後、大御神は五百箭の矢を天鈿女神、天手力男神の二神に授け葦原中国に降り、その矢を美地に蔵せと命令する。天鈿女神と天手力男は共にその地の里に矢を納めて居住した。それ故に矢倉郷、矢野という地名となった。

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天石門別八倉比賣神社は延喜式名帳に名神大社大月次新嘗とあり、太神二神に矢を納めし処なれば宮居を造り、天石門を押開け天降りった場所故に天石門別と云う。

また、矢倉郷に坐す姫神故に八倉比賣と云う。矢野神山とは喜納邊山に太神が始めて鎮座したので神山と呼ぶ。そのことから矢野神山は多くの歌人に歌われている。

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小治田の御宇には太神の神託があって杉尾山に遷座した。それ故に杉尾大明神と呼ばれる。矢を持って降った天鈿女神と天手力男神の二神は松熊二座の神として鎮座しているが、これ古くは社名を「先来待(まつくま)」と云う。

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太神は天降り、山の麓に留まり坐す。それ故に「屋止利宮(やとりみや)」、今は箭執社と云う。

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このような天照大御神を始めとする神々が降臨した地、矢野村において正月初めて當村の地に入る者、特に馬に乗ることを叶わずとあり、馬の立髪を斬竹に挟んで立て置いて遥拝してから通ることが通例とされた。遥拝をすませば馬に乗り通ることが許され、このしきたりを守らない者は落馬、馬が卒倒すると伝えられていた。

また、八百万の神達が憂いて集まった天八湍河原とは鮎喰川原と推測でき、天石門別八倉比賣神社一の鳥居は鮎喰川の堤下に存在していたが今は原となっている。

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その他には上古、神供の地には必ず五十串塚(いくしづか)があった。五十の祓串を立てて神を祀り神供の調献を行なっていた。これは「時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦、八十玉籖などいろいろ御幣る。」とあるように伊魔離神社当地が五十串塚として挙げることができる。 

 

はい。ここからが今回の真骨頂。「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」の内容を私が考える神に置き変えて考えてみました。ここからはawa-otokoの想像となります。閲覧にご注意ください。(笑)

矢野村は神代の昔に大宜都比売命卑弥呼)が天日鷲命(男王)の暴悪を防ごうと背に千の箭(や)入れた靭(うつぼ)と五百の箭を入れた靭を用意し、自らも武装して天日鷲命(男王)を待ち構えた場所である。
天日鷲命(男王)は大宜都比売命卑弥呼)の意思に驚き、争いの意思が無いこと示した。大宜都比売命卑弥呼)はそれを受け入れたが天日鷲命(男王)の暴悪な行動は治まることは無く、さらに激しさを増した。これを嘆いた大宜都比売命卑弥呼)は気を病んでそのまま喪に服してしまった。国々の秩序が崩壊し、全ての者が安心して生活を営むことができない世界となってしまった。
大宜都比売命の八伴神達はこれに憂いて天八湍河原に集まり思慮した。八伴神の思慮により神楽を奏上し、巫女として能力が高い天石門別豊玉比賣命(壹与)の歌と舞で大宜都比売命卑弥呼)の葬儀を執り行なった。葬儀を無事に執り行なった後、天手力男神高皇産霊神)が大宜都比売命卑弥呼)の代わりに天石門別豊玉比賣命(壹与)を女王として擁立することを宣言、大宜都比売命卑弥呼)の神威を兼ね備えた天石門別豊玉比賣命(壹与)が国を治めると国々の秩序の乱れは改善された。

その騒動から天日鷲命(男王)は粟国(あわ邪馬壹国)に関東に移動を余儀なくされ、関東の地に第二の粟国(安房国)を造りあげた。
その後、五百箭の矢を持った天石門別豊玉比賣命(壹与)、天手力男神高皇産霊神)の二神が葦原中国に降り、その矢を美地に蔵した。天石門別豊玉比賣命(壹与)と天手力男高皇産霊神)は共にその地の里に矢を納めて居住した。それ故に矢倉郷、矢野という地名となった。
天石門別八倉比賣神社は延喜式名帳に名神大社大月次新嘗とある。太神二神に矢を納めし処なれば宮居を造り、天石門を押開け天降りった場所故に天石門別と云う。
また、矢倉郷に坐した姫神であった大宜都比売命卑弥呼)を偲び八倉比賣と云う。矢野神山とは喜納邊山に太神(大宜都比売命:卑弥呼)が始めて鎮座したので神山と呼ぶ。そのことから矢野神山は多くの歌人に歌われている。
小治田の御宇には太神(大宜都比売命:卑弥呼)の神託があって杉尾山に遷座した。それ故に杉尾大明神と呼ばれる。矢を持って降った豊玉比賣命(壹与)と天手力男神高皇産霊神)の二神は松熊二座の神として鎮座しているが、これ古くは社名を「先来待(まつくま)」と云う。
二神は天降り、山の麓に留まり坐す。それ故に「屋止利宮(やとりみや)」、今は箭執社と云う。

 

総括

矢野神山は喜納邊山に太神(大宜都比売命:卑弥呼)が始めて鎮座したので神山と呼ぶ。

天降った天石門別豊玉比賣命(壹与)と天手力男高皇産霊神)が鎮座した地故に矢野杉尾大明神は「天石門別豊玉比賣神社」である。

粟国から追放された天日鷲命は関東に拠点を求め、第二の粟国を開拓した。それが安房国である。

 

あくまで妄想を伝承に落とし込んだお話です。

この内容に積羽事代主神大麻比古神(猿田彦大神)などを盛り込めばさらに辻褄が合わない話になってしまうのです… いつもより強引に落とし込んでみましたが如何でしょうか。ちょっと斜めから考えて考察の幅を広げてみようかと試みましたが無理があるかもしれないですね。

あ、あくまで妄想ですのでクレームとかは無しでお願いしまーすw(笑)それでは。