貞光墓は誰の墓⁈
貞光の地名に就て即ち「貞光は異本阿波志曰太田貞光殿とあり又阿波志曰或曰藤原貞光嘗居此、因名ともに人の名になしたれどいかがあらむ嘉祥年間宣命の寪に定満とあり又慶長八年の記を寪したるには定光とあり全く人の名と思れぬ處あり」と、併し異本阿波志には太田文貞光殿とあり。太田文とは那賀郡和食村蛭子神社所蔵元亀四年の文書を指せるなり。而して貞光殿とある貞光は寧ろ地名をとりたるものと認めらる。然れども今貞光に貞光の墓と稱せらるるものあるを見れば阿波志の記する處適中せるものならん。
はい。貞光という地名の起りについて記されている一文を古書より抜粋しております。内容は今風?に訳せば、、、
貞光の地名って異本阿波志では太田文貞光殿って書いてるけど、文書のことじゃなく藤原貞光じゃね⁈ でもな〜、人名からは採用してない気がする。あ〜、貞光村に「貞光の墓」ってのが昔からあるじゃん。やっぱ地名の貞光って人名から採用してるんじゃね????
てな、感じですかね。
書籍からなのか人名なのかを明言してないところから昔から真相はわからないんでしょうね。
で、貞光の地名人名由来説についてはその他にも様々な貞光説がありますが、上記の引用文には記載されていない「◯◯貞光」なる人物が存在しました。
それは…
碓井(臼井)貞光(うすいさだみつ)
酒呑童子を退治した源頼光の四天王の一人。坂田金時をスカウトしたということでも有名ですね。
その碓井貞光については、貞光町の臼井家は碓井貞光との繋がりが口伝として残っていたようで、その昔にわざわざ相模国まで調査に赴いたようです。
その昔、阿波臼井家が碓井貞光との関係を調べに相模国へ赴いた時、相模国碓井家は「当家先祖は遥かな昔、阿波国より来たと教えられている。」と答えた。その繋がりにいたく感激した臼井氏ら調査団は碓井貞光の分霊を阿波国に持ち戻り、それより毎年欠かさず祭祀を執り行っているとのことである。
このような臼井家の伝承をさらに掘り下げてみても面白いのですが、ちょっと個人的には 碓井貞光の説は … の部分がございまして。(じゃあなぜ例に挙げた?とツッコミが入りそうですが… 苦笑)
で、awa-otokoが調査している「◯◯貞光」の線上にはご存知の忌部大宮司家正統 麻植定光(おえのさだみつ)がございます。
「麻植定光木綿麻山神社ト号ス天児屋根命児宮… 」の記録が残る麻植定光ですね。因みに忌部系図では四十三代目として記録されています。そこで下記の資料をご覧いただきたい。
貞光墓:町の中部字辻十王堂にあり、石製の小祠を置き俗に臼井貞光を祀ると、然れども其實藤原貞光或は麻植貞光を祀れるものならん、美馬郡誌に貞光の墓は無銘の五輪塔なりと記せども今在らず。
(麻植定光を祀るとされる端四国八十八 十王堂)
(十王堂裏の貞光の墓とされる小祠)
(個人的にはお堂の真後ろにあるこの祠と推定)
このように麻植定光の墓は端四国八十八の九番 十王堂の裏の祠に祀らていると伝わります。やはりこちらも臼井、藤原、麻植の貞光達の古跡が混同して伝承されており、確かな答えについては明言はされていません。
やっぱりいろいろ調べてみても、地名の貞光とは人名からの由来なのか、また十王堂裏の墓はどの貞光の墓なのか。謎のままなんですね。
という訳で、なぜわからなくなったかの理由を推測してみます。
まず中世での長曾我部元親による侵攻での破壊。そして復興後の蜂須賀家の裏工作。そしていちばん感じられるのが明治〜昭和にかけて限られた範囲内で住宅が密集した結果、周囲の景観が全く確認できなくなってしまったことですね。東西ミサキや神子塚(朝日は現存、夕日は不明)などの位置関係は貞光町内を歩いているだけでは全くわかりません。
過去記事やフェイスブックでも書きましたが、本来貞光村は東西にわけて同じような古跡が存在していました。これから考えれば麻植定光、碓井貞光の墓も各々存在していた可能性も…(これは勝手な私感。)
最後に。
awa-otoko的には麻植定光の名が貞光町の由来であり、十王堂の祠付近に五輪塔も存在したと考えています。今回いろいろ古文書から古跡の位置、伝承を下調べしてから貞光町で実地調査しましたが、(上記の理由から)なかなか掴めませんでした。また新たな対策を考えてから再度リベンジしてみようと思っています。(>_<)