awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

一宇谷に白壁の家が無い理由

 f:id:awa-otoko:20180120234758j:image

名勝一宇峡の奇観、土釜を見下ろして建つ記念碑があるのはご存知でしょうか。碑文の主人公は谷貞之丞。当地の困窮を救済した義人であります。今回も番外編、昔々の哀しい伝承です。

f:id:awa-otoko:20180120234838j:image

f:id:awa-otoko:20180120234926j:image

宝永の終わりごろに旱魃が続きで池や沼、井戸の水は枯れ、日毎夜毎集落の民総出で行う雨乞いも神仏に通じることなく、田や畑は裂けて作物は枯れ果てて餓死を待つばかりとなった。親は子に、子は親に食料を与えようと村中血の涙の状態であった。時の代官 貞満某は毎年の宍料として、ツガ、ヒノキの板角、ヒエ、麦などを徴収していたが、一戸当たり白米八升四合に改め、納められない者は相当の銀札を納付せよと百姓達に厳しく通達した。

正徳の初年八月のある夜、一宇川原には松明の火を掲げ、手には槍、竹槍を携えむしろ旗を押し立てて集まった村の衆。「辛抱これまで… 」悪代官に向けた殺気は川原に込めて正に一触触発の状態になっていた。これを聞いた谷貞之丞は直ちに現場へ駆け付けて一同をなだめた。「皆の衆待て。いま乱暴を起こしては理が非に落ちる。一切をこの谷貞之丞に任せてくれ。」村の衆もかねてから信頼し、尊敬している貞之丞に一任して一応引き揚げることとなった。
心中期した貞之丞は訴状をしたためて徳島城下に急行し、徳島橋のたもとで国家老 賀島主水正の登城を待ち、直訴を行なった。

訴状は取り上げられたが、国法を犯した罪により町奉行 生田弁左衛門の取り調べを受け、貞之丞はつぶさに百姓の窮状を訴えた。「只今一宇の村には一粒の穀類もなく、塩を買う金もない。子供の寝小便したムシロを干し、微かな塩分を探すという実に散々たる状態にある… 」

徳島藩では評議の結果、願いは聞き届けられ、代官の命令は取消し、宍料は旧に復することになった。ただ、直訴を行なった罪により貞之丞は鮎喰川原で打首が決まり、妻子は沖洲から小舟に乗せて流されて一家は断絶した。

処刑の日、鮎喰川原の矢来の外には数百人の老若男女が集まって号泣の声が絶たなかったという。
貞之丞の首は塩漬けにされ、一宇谷の登り口に晒されたが、この時首とともに伝えられたのは「白壁の家は決して建てるな。分相応の暮らしをして永く生活を守れ。」という遺言であった。首が晒されている間、一宇谷の百姓は一身一家を犠牲にして数千の命に代えた義人のために戸を閉じて念仏を唱え、夜は高火を焚いて冥福を祈った。
集落では未だに「白壁の家を建てると三代続かぬ」という言伝えが残り、彼の遺言を固く守っている。毎年命日の十一月十四日に高火を焚いて供養しているのである。

f:id:awa-otoko:20180121001321j:image(鳴滝)

f:id:awa-otoko:20180121005158j:image(土釜の滝)

はい。碑の建立は自らと一族をも犠牲にして村を救済した義人への感謝の念が込められているのは間違いございません。現在は鳴滝と共に景勝地として有名な土釜ですが、もし立ち寄った際にはこのような哀しい出来事があったことを碑と看板を見て思い出して欲しいですね。

f:id:awa-otoko:20180121005237j:image(土釜遊歩道入口の祠)

awa-otokoは土釜の迫力よりこちらのインパクトの方が強すぎて(わいは想像力豊かだからな。)、ちょっと気持ち的に参ってしまいました。そして昔から◯◯の名所ということで、いろいろな残留思念⁈ が入ってテンションだだ下がりだったのです…( 人によっては淵を覗くとほんとに飛び込みたくなるので注意‼︎)

ちなみに貞光と一宇ではこのような伝承が多く、地域柄忌部神だけではなく義人たちも神として祭祀されているものが多く残されています。また情報が揃い次第紹介しようと考えています。(。-_-。)

貞光村の罪人六人塚

f:id:awa-otoko:20180116222908j:image

今回は貞光番外編。以前に投稿した内容では西側の氣の流れが停滞して云々… いうておりましたが、貞光村の伝承から見つけてナルホド、あの陰の雰囲気の理由がわかりました。まぁさらっと流し読みできるように書いた(つもり)なので読んでみて下さいな。

f:id:awa-otoko:20180116222358j:image

天正年間吉野川は現在の二倍ほどもあり、貞光村はいまの町の北半分がこの流れの底にあった。村は西山、東山の間に挟まれた窪地にあって、貞光駅前通りの鴻淵という地名もその名残りなのである。

f:id:awa-otoko:20180116222449j:image
蜂須賀氏が阿波に入国して、いつの頃からか貞光村字◯◯の道路脇に「藤の森」という処刑場があった。奉行所で罪の決まった罪人はすべてそこで打首なったという。

f:id:awa-otoko:20180116222556j:image
藤の森を含めた山一帯は国有林で、関係者以外は何人たりと立ち入りを禁止されていたが、この掟を破って山に入って木を伐採した貞光村に住む六人の男がいた。国有林は立ち入り禁止のため大木がたくさんあり、男たちが目をつけたのは中でも一際目立つトガの巨木だった。六人は毎晩藤の森に出かけては、番人に見つからぬよう巨木にノコギリを入れていた。だがやっとの思いで切り倒し時に山奉行である小野寺七郎右衛門に知られてしまうことになる。物音しない深夜に巨木が倒れたら、いかに深い眠りに入っていても目覚めぬ者はいないであろう。飛び起きた七郎右衛門は直ちに現場に駆けつけて六人の男達を捕まえたという。

f:id:awa-otoko:20180116222727j:image(貞光 野口城跡)
この六人の男達はこの藤の森で処刑された。村人たちは馬鹿げたことで命を捨てた六人ではあったが手厚く葬り、墓は思い出の藤の森の地に建ててやった。いまでも罪人六人塚と呼ばれて残っている。

f:id:awa-otoko:20180116222812j:image(西浦(野口)観音堂)

また、山奉行の小野寺七郎右衛門もこの罪人達を不憫に思ってか、切り倒されたトガの巨木を領主から貰い受け、荒れ果てた野口の城跡に観音堂を建立して、六人の男達の霊を慰めたという。この巨木一本で作られた観音堂は現在も残っている。その境内は小野寺家の墓地となっている。

罪人六人塚は… その境内の草木に覆われ、今は拝む者もなく、ひっそりと佇んでいるのみということである。(終)

f:id:awa-otoko:20180116223111j:image(罪人六人塚は見つけられなかったので謎の塚?をアップしておきます。)

貞光(野口)城跡がまさかの処刑場だったとは驚きでしょう。ちょっと暗い内容でしたが、埋もれた歴史の一端を掘り返し、その情報を持って現地に赴くのもまた一興。(今回の場所はちょっと寂しい場所だけど。)このようなマイナーな郷土ネタもちょくちょく挙げていきたいと思っています。( ´∀`)

大規模に行われた「神寄せ」とは⁈

f:id:awa-otoko:20180113175341j:image
どうも。今回は土成町を代表する神社、宮川神社をご紹介致します。そしてその由緒の中から「神寄せ」について述べてみました。(注:神寄せっても神降しの意ではない。)

f:id:awa-otoko:20180113175430j:image

f:id:awa-otoko:20180113183700j:image

吹越神社の分霊を祭祀して牛頭天王と称していた当社は旧村社であり、神饌幣帛料供進社。慶安四年(1651)の棟札を存し、寛保神社帳に「宮河内村牛頭天王別当吉田村神宮寺」、「阿波志」に「牛頭祠宮川内村に在り」と見える。明治初年に八坂神社と改称、同四十四年に吉野神社ほか二十四社を合祀して宮川神社と改称した。

祭神は素戔嗚命稲田姫命(合)、倉稲魂命大己貴命、太田命、大宮姫命、保食神、野槌命、大直日命、萱野比賣命、品陀別命、安閑天皇

引用の説明にあるように吉田の吹越大明神を分祀したもので、しかも飛蔵山の吉野神社さえをも合祀した土成町の総合神社といえます。祭神に素戔嗚命もいるし安閑天皇もいますね。(稲田、倉稲魂、保食神などもいるので大宜都比売命系も入ってる。)

地域的には宮川神社は吹越大明神の分社というところで落ち着いているようです。本社である吉田 吹越大明神は大正二年に二十六社を合祀し、昭和三十二年に御所屋敷の御所神社を合併して御所神社と総称するようになっています。もう何が何なのかわからなくなっているのが現状なんです。このような多くの祠や社を合祀した地域総合神社になってしまった神社って意外に多いのです。

f:id:awa-otoko:20180113175813j:image

f:id:awa-otoko:20180113175843j:image

f:id:awa-otoko:20180113175927j:image

このように大規模に合祀を行うことは、明治末期より実行された「神寄せ」と呼ばれるもので、集落の経済的な理由により集落の中の神社を一箇所に統合して合祀するコスト削減の手段だったのです。

f:id:awa-otoko:20180113182417j:image(由緒は書けないのかな?)

そもそも合祀については由緒不明であるとか、社殿が廃れて独立した神社として維持できない場合に許されてきました。一社または数社の独立した神社の祭神を他の神社の本殿に合祀したり、一神社の境内地や飛び地境内地へ他の神社を移転する(合祀された神社は境内神社となる)ことですね。

「神寄せ」とは、集落の経済的理由から大規模な合祀を実施した、謂わば其の場しのぎの対策だったのです。

f:id:awa-otoko:20180113182237j:image妙見大菩薩の刻… 主祭神素戔嗚命なのにね… 倉稲魂繋がりかなぁ… )

f:id:awa-otoko:20180113182314j:image(過去に合祀された小祠の御神体たち… あーぁ… )

本来なら先祖代々が祀り伝えてきたものを子孫に祀り伝えて行く責任があるわけで、これは古代から中世までは基本的に守られていたもの。古来からの神、先祖を神として敬うことを根底に集落の秩序が構築されていたことはいうまでもありません。

f:id:awa-otoko:20180113193745j:image

この大規模な合祀「神寄せ」については、神勅、神意を伺いもせずに実施された取り返しのつかない行為であると考えるのです。。。が…その時に存在しなかったawa-otokoが当時の状況を理解できるはずもなく、仕方なかった理由もあるのかも。としておきます。。。

ただ、宮川神社に合祀された二十四社にもそれぞれが創設の理由があり、その神を信仰して神の加護を信じていた人々の実績があって存在していたのを忘れてはいけません。もし参拝する機会があったら、ちょっとその背景を思い出すだけでもいいかもしれません。たぶん喜んでくれてご利益プラスになるかもしれませんよ。( ´∀`)

※注:徳島県下にまだまだたくさんの「神寄せ神社」が存在します。宮川神社だけではありませんのでご留意下さい。

 

栂橋の古戦場と犬の墓(と、そばごや)

f:id:awa-otoko:20180109001149j:image

一宇村古見地区には多くの名所旧蹟や古戦場があります。一宇では昔からお邸さんと呼ばれている旧家があり、ここの主人は代々天狗がついているという伝説があって実際に不思議なことが度々おこったそうです。
この旧家は南朝の忠臣であった小野寺一族で、天正十年阿波郡朽田五ヶ庄の地頭でありましたが、土佐の長曾我部元親の阿波国侵攻の戦いに破れて一宇に逃れきたと云われています。その後阿波藩主となった蜂須賀家に功績を残したことから、禄高百石と南の姓を賜ったそうです。

f:id:awa-otoko:20180109001229j:image(栂橋の古戦場)

天正十三年七月、豊臣秀吉四国征伐の折、脇城主 長曾我部新左衛門尉親吉が蜂須賀勢に追われて土佐に逃げ帰る途中に、一宇栂橋で待ち伏せして戦った場所が栂橋の古戦場であります。

なお、残余の敵を追い敵将 長曾我部親吉を倒し、以下重臣八名の首塚があるのが切越で現在八ツ塚大権現として祀られています。切越の地名も当初は大勢の人を切り殺したので、切殺名と云われていたようです。(おそろしや。)

f:id:awa-otoko:20180109001659j:image(看板裏の塚)

f:id:awa-otoko:20180109001324j:image(左側の地蔵尊は犬の墓にあったものを移動してきたっぽい。)

f:id:awa-otoko:20180109001541j:image(心霊スポットで紹介されている場所ですね。)

f:id:awa-otoko:20180109001618j:image(いつも同じこと言いますけど、遊びでヅカヅカ入ったらヤバイっすょ。 (塚だけに… ))

さて、看板に記載されているように阿波町大俣にある犬墓と同じく当地に「犬の墓」なるものが存在します。こちらの由緒は以下の通りでございます。

一宇村の山奥に高清左衛門という鉄砲の名人が住んでおり、左衛門はいつも愛犬を連れて山へ猟に入っていた。(この左衛門は上桜城主 篠原長房の次男 篠原松光が名前を変え、左衛門を名乗り、脇城主である稲田稙元に猟師頭を命じられ半田の高清(こうせ)に住み、高清と改姓して高清左衛門と呼ばれたと伝わる。)
ある日に高清左衛門は山奥へシカ狩りに出かけたが、妙なことに一日中走り回っても獲物一匹にも出会わなかった。腑に落ちない左衛門は川のふちで寝ることにしたが、急に愛犬がけたたましく吠え出したために左衛門は不思議がって周りを見たが、特に変わったことはない。そのようなことが数回あり、左衛門が三度寝かけると、今度は愛犬が着物の裾をくわえて強く引っ張りだした。左衛門は「これは、犬が狂ったに違いない」と思い、山刀で愛犬の首を切り落としてしまった。刎ねた愛犬の首は谷の向こうに飛び、潜んでいた大蛇に噛みついたのである。左衛門は鉄砲で大蛇を撃ち、大蛇は悶えながら川沿いの岩穴ん中へ逃げ込んだ。それ以降大蛇を見たものはいないという。左衛門は自分を助けてくれたのに可哀想に殺してしまったことを悔やみ、この場に犬の墓を建て地蔵を祀って愛犬の霊を慰めたという。

はい。どうも動物に例えている内容を人間で置き換えて考えてしまうawa-otokoなんですが、因果関係で考えれば長曾我部って物部(蛇)なんですよね。諜報活動をしていた者(犬)が犠牲になって討伐した栂橋の戦いを象徴しているように感じるのは私だけでしょうか。

f:id:awa-otoko:20180109001500j:image(切東家の墓地)
また、犬の墓は案内板にあるように切東家墓所にあったようですが、古戦場跡の塚の横に地蔵尊の石像とともに移動されているみたいですね。

 

さて、このようなちょっとミステリアスな場所なんですが、古戦場と犬の墓の看板の真横になかなかあじのある雰囲気を醸し出している食事処「そばごや」があるんですよ。

f:id:awa-otoko:20180109001740j:image

f:id:awa-otoko:20180109001819j:image

f:id:awa-otoko:20180109001857j:image

f:id:awa-otoko:20180109001926j:image

11月には絶品な新そばが食せる店ですので、近くに寄る機会があればぜひ一度訪れてみてください。いりこだしの絶品そばを食することができますよ。

という訳で、古跡を紹介したいのか、そばを紹介した食レポなのかわからなくなってしまいましたが、、、夜も更けてきたことからこれくらいで締めたいと思います。ではまたね。(^人^)

中鳥島 伊射奈美神社の元社跡に行ってきた☆

f:id:awa-otoko:20180106191350j:image

f:id:awa-otoko:20180106222846j:image

今は無人島になっている中鳥島。過去の大洪水から陸地より分断されて、なかなか島まで渡ることができませんでした。

f:id:awa-otoko:20180106221951j:image

年末年始にかけて中鳥島周辺の水量がひいているという情報を入手していましたところで、たまたま近くを通ったことでチャレンジしてきました。

f:id:awa-otoko:20180106223915j:image(北側)

f:id:awa-otoko:20180106223943j:image(西側)

f:id:awa-otoko:20180106224150j:image(南側)

えぇ。めっちゃ砂に脚を取られ、川砂利につまずきながら歩きましたよ。(もうこの時点で疲れている。)

f:id:awa-otoko:20180106224612j:image(中鳥城の石垣)

さて、登るポイントはたくさんあります。行く人は各人のお好みで選ばれたらいいと思います。(当たりハズレ有り)

awa-otokoが登ったポイントは長年の勘から選んだのですがビンゴ。中鳥城(学校跡)の石垣前に出ました。

f:id:awa-otoko:20180106225045j:image

やっとこさ竹と荊を掻き分けて出ると…

f:id:awa-otoko:20180106225249j:image(中鳥城跡・中鳥学校跡)

f:id:awa-otoko:20180106225514j:image(謎の建造物: 蔦が絡んでわからんかった。)

島の中で迷った場合によく目を凝らして周囲を見ればきちんと参道も残っているので、自分の所在地はわかりやすいと思います。

f:id:awa-otoko:20180106225807j:image

さて、それではなかなかお目にかかることがないと思われる伊射奈美神社の元地の状況をお見せしたいと思います。

f:id:awa-otoko:20180106230257j:image

f:id:awa-otoko:20180106230424j:image

f:id:awa-otoko:20180106230515j:image

f:id:awa-otoko:20180106230559j:image

f:id:awa-otoko:20180106230640j:image

現地に行くとなかなか感慨深いものがあります。

ま、伊射奈美神社の詳しい内容は他のブロガーさん達がこぞって挙げられているのでそちらをご覧になって下さいな。

f:id:awa-otoko:20180106230924j:image(十年前に建設された石碑。の裏な。)

ちなみにawa-otokoの考えは、中鳥島 伊射奈美神社の元社であるという事には賛同しますが、阿波国イザナミ神社の元社であるとは思っておりませんので悪しからず。まぁ、新年早々小難しいことを羅列するのも何なんで今回はここまで。

たぶん元社跡に行く人もいると思うので注意点を。イノシシのヌタ場とかが結構あるので鉢合わせしないように。登っても降りるポイントを間違えたら…  あと、目利きの人なら嬉しい拾い物ができるかも。(ここでは言わないけど。)

それではまた。( ´∀`)