一宇谷に白壁の家が無い理由
名勝一宇峡の奇観、土釜を見下ろして建つ記念碑があるのはご存知でしょうか。碑文の主人公は谷貞之丞。当地の困窮を救済した義人であります。今回も番外編、昔々の哀しい伝承です。
宝永の終わりごろに旱魃が続きで池や沼、井戸の水は枯れ、日毎夜毎集落の民総出で行う雨乞いも神仏に通じることなく、田や畑は裂けて作物は枯れ果てて餓死を待つばかりとなった。親は子に、子は親に食料を与えようと村中血の涙の状態であった。時の代官 貞満某は毎年の宍料として、ツガ、ヒノキの板角、ヒエ、麦などを徴収していたが、一戸当たり白米八升四合に改め、納められない者は相当の銀札を納付せよと百姓達に厳しく通達した。
正徳の初年八月のある夜、一宇川原には松明の火を掲げ、手には槍、竹槍を携えむしろ旗を押し立てて集まった村の衆。「辛抱これまで… 」悪代官に向けた殺気は川原に込めて正に一触触発の状態になっていた。これを聞いた谷貞之丞は直ちに現場へ駆け付けて一同をなだめた。「皆の衆待て。いま乱暴を起こしては理が非に落ちる。一切をこの谷貞之丞に任せてくれ。」村の衆もかねてから信頼し、尊敬している貞之丞に一任して一応引き揚げることとなった。
心中期した貞之丞は訴状をしたためて徳島城下に急行し、徳島橋のたもとで国家老 賀島主水正の登城を待ち、直訴を行なった。訴状は取り上げられたが、国法を犯した罪により町奉行 生田弁左衛門の取り調べを受け、貞之丞はつぶさに百姓の窮状を訴えた。「只今一宇の村には一粒の穀類もなく、塩を買う金もない。子供の寝小便したムシロを干し、微かな塩分を探すという実に散々たる状態にある… 」
徳島藩では評議の結果、願いは聞き届けられ、代官の命令は取消し、宍料は旧に復することになった。ただ、直訴を行なった罪により貞之丞は鮎喰川原で打首が決まり、妻子は沖洲から小舟に乗せて流されて一家は断絶した。
処刑の日、鮎喰川原の矢来の外には数百人の老若男女が集まって号泣の声が絶たなかったという。
貞之丞の首は塩漬けにされ、一宇谷の登り口に晒されたが、この時首とともに伝えられたのは「白壁の家は決して建てるな。分相応の暮らしをして永く生活を守れ。」という遺言であった。首が晒されている間、一宇谷の百姓は一身一家を犠牲にして数千の命に代えた義人のために戸を閉じて念仏を唱え、夜は高火を焚いて冥福を祈った。
集落では未だに「白壁の家を建てると三代続かぬ」という言伝えが残り、彼の遺言を固く守っている。毎年命日の十一月十四日に高火を焚いて供養しているのである。
(鳴滝)
(土釜の滝)
はい。碑の建立は自らと一族をも犠牲にして村を救済した義人への感謝の念が込められているのは間違いございません。現在は鳴滝と共に景勝地として有名な土釜ですが、もし立ち寄った際にはこのような哀しい出来事があったことを碑と看板を見て思い出して欲しいですね。
(土釜遊歩道入口の祠)
awa-otokoは土釜の迫力よりこちらのインパクトの方が強すぎて(わいは想像力豊かだからな。)、ちょっと気持ち的に参ってしまいました。そして昔から◯◯の名所ということで、いろいろな残留思念⁈ が入ってテンションだだ下がりだったのです…( 人によっては淵を覗くとほんとに飛び込みたくなるので注意‼︎)
ちなみに貞光と一宇ではこのような伝承が多く、地域柄忌部神だけではなく義人たちも神として祭祀されているものが多く残されています。また情報が揃い次第紹介しようと考えています。(。-_-。)