awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

大規模に行われた「神寄せ」とは⁈

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どうも。今回は土成町を代表する神社、宮川神社をご紹介致します。そしてその由緒の中から「神寄せ」について述べてみました。(注:神寄せっても神降しの意ではない。)

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吹越神社の分霊を祭祀して牛頭天王と称していた当社は旧村社であり、神饌幣帛料供進社。慶安四年(1651)の棟札を存し、寛保神社帳に「宮河内村牛頭天王別当吉田村神宮寺」、「阿波志」に「牛頭祠宮川内村に在り」と見える。明治初年に八坂神社と改称、同四十四年に吉野神社ほか二十四社を合祀して宮川神社と改称した。

祭神は素戔嗚命稲田姫命(合)、倉稲魂命大己貴命、太田命、大宮姫命、保食神、野槌命、大直日命、萱野比賣命、品陀別命、安閑天皇

引用の説明にあるように吉田の吹越大明神を分祀したもので、しかも飛蔵山の吉野神社さえをも合祀した土成町の総合神社といえます。祭神に素戔嗚命もいるし安閑天皇もいますね。(稲田、倉稲魂、保食神などもいるので大宜都比売命系も入ってる。)

地域的には宮川神社は吹越大明神の分社というところで落ち着いているようです。本社である吉田 吹越大明神は大正二年に二十六社を合祀し、昭和三十二年に御所屋敷の御所神社を合併して御所神社と総称するようになっています。もう何が何なのかわからなくなっているのが現状なんです。このような多くの祠や社を合祀した地域総合神社になってしまった神社って意外に多いのです。

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このように大規模に合祀を行うことは、明治末期より実行された「神寄せ」と呼ばれるもので、集落の経済的な理由により集落の中の神社を一箇所に統合して合祀するコスト削減の手段だったのです。

f:id:awa-otoko:20180113182417j:image(由緒は書けないのかな?)

そもそも合祀については由緒不明であるとか、社殿が廃れて独立した神社として維持できない場合に許されてきました。一社または数社の独立した神社の祭神を他の神社の本殿に合祀したり、一神社の境内地や飛び地境内地へ他の神社を移転する(合祀された神社は境内神社となる)ことですね。

「神寄せ」とは、集落の経済的理由から大規模な合祀を実施した、謂わば其の場しのぎの対策だったのです。

f:id:awa-otoko:20180113182237j:image妙見大菩薩の刻… 主祭神素戔嗚命なのにね… 倉稲魂繋がりかなぁ… )

f:id:awa-otoko:20180113182314j:image(過去に合祀された小祠の御神体たち… あーぁ… )

本来なら先祖代々が祀り伝えてきたものを子孫に祀り伝えて行く責任があるわけで、これは古代から中世までは基本的に守られていたもの。古来からの神、先祖を神として敬うことを根底に集落の秩序が構築されていたことはいうまでもありません。

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この大規模な合祀「神寄せ」については、神勅、神意を伺いもせずに実施された取り返しのつかない行為であると考えるのです。。。が…その時に存在しなかったawa-otokoが当時の状況を理解できるはずもなく、仕方なかった理由もあるのかも。としておきます。。。

ただ、宮川神社に合祀された二十四社にもそれぞれが創設の理由があり、その神を信仰して神の加護を信じていた人々の実績があって存在していたのを忘れてはいけません。もし参拝する機会があったら、ちょっとその背景を思い出すだけでもいいかもしれません。たぶん喜んでくれてご利益プラスになるかもしれませんよ。( ´∀`)

※注:徳島県下にまだまだたくさんの「神寄せ神社」が存在します。宮川神社だけではありませんのでご留意下さい。

 

栂橋の古戦場と犬の墓(と、そばごや)

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一宇村古見地区には多くの名所旧蹟や古戦場があります。一宇では昔からお邸さんと呼ばれている旧家があり、ここの主人は代々天狗がついているという伝説があって実際に不思議なことが度々おこったそうです。
この旧家は南朝の忠臣であった小野寺一族で、天正十年阿波郡朽田五ヶ庄の地頭でありましたが、土佐の長曾我部元親の阿波国侵攻の戦いに破れて一宇に逃れきたと云われています。その後阿波藩主となった蜂須賀家に功績を残したことから、禄高百石と南の姓を賜ったそうです。

f:id:awa-otoko:20180109001229j:image(栂橋の古戦場)

天正十三年七月、豊臣秀吉四国征伐の折、脇城主 長曾我部新左衛門尉親吉が蜂須賀勢に追われて土佐に逃げ帰る途中に、一宇栂橋で待ち伏せして戦った場所が栂橋の古戦場であります。

なお、残余の敵を追い敵将 長曾我部親吉を倒し、以下重臣八名の首塚があるのが切越で現在八ツ塚大権現として祀られています。切越の地名も当初は大勢の人を切り殺したので、切殺名と云われていたようです。(おそろしや。)

f:id:awa-otoko:20180109001659j:image(看板裏の塚)

f:id:awa-otoko:20180109001324j:image(左側の地蔵尊は犬の墓にあったものを移動してきたっぽい。)

f:id:awa-otoko:20180109001541j:image(心霊スポットで紹介されている場所ですね。)

f:id:awa-otoko:20180109001618j:image(いつも同じこと言いますけど、遊びでヅカヅカ入ったらヤバイっすょ。 (塚だけに… ))

さて、看板に記載されているように阿波町大俣にある犬墓と同じく当地に「犬の墓」なるものが存在します。こちらの由緒は以下の通りでございます。

一宇村の山奥に高清左衛門という鉄砲の名人が住んでおり、左衛門はいつも愛犬を連れて山へ猟に入っていた。(この左衛門は上桜城主 篠原長房の次男 篠原松光が名前を変え、左衛門を名乗り、脇城主である稲田稙元に猟師頭を命じられ半田の高清(こうせ)に住み、高清と改姓して高清左衛門と呼ばれたと伝わる。)
ある日に高清左衛門は山奥へシカ狩りに出かけたが、妙なことに一日中走り回っても獲物一匹にも出会わなかった。腑に落ちない左衛門は川のふちで寝ることにしたが、急に愛犬がけたたましく吠え出したために左衛門は不思議がって周りを見たが、特に変わったことはない。そのようなことが数回あり、左衛門が三度寝かけると、今度は愛犬が着物の裾をくわえて強く引っ張りだした。左衛門は「これは、犬が狂ったに違いない」と思い、山刀で愛犬の首を切り落としてしまった。刎ねた愛犬の首は谷の向こうに飛び、潜んでいた大蛇に噛みついたのである。左衛門は鉄砲で大蛇を撃ち、大蛇は悶えながら川沿いの岩穴ん中へ逃げ込んだ。それ以降大蛇を見たものはいないという。左衛門は自分を助けてくれたのに可哀想に殺してしまったことを悔やみ、この場に犬の墓を建て地蔵を祀って愛犬の霊を慰めたという。

はい。どうも動物に例えている内容を人間で置き換えて考えてしまうawa-otokoなんですが、因果関係で考えれば長曾我部って物部(蛇)なんですよね。諜報活動をしていた者(犬)が犠牲になって討伐した栂橋の戦いを象徴しているように感じるのは私だけでしょうか。

f:id:awa-otoko:20180109001500j:image(切東家の墓地)
また、犬の墓は案内板にあるように切東家墓所にあったようですが、古戦場跡の塚の横に地蔵尊の石像とともに移動されているみたいですね。

 

さて、このようなちょっとミステリアスな場所なんですが、古戦場と犬の墓の看板の真横になかなかあじのある雰囲気を醸し出している食事処「そばごや」があるんですよ。

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11月には絶品な新そばが食せる店ですので、近くに寄る機会があればぜひ一度訪れてみてください。いりこだしの絶品そばを食することができますよ。

という訳で、古跡を紹介したいのか、そばを紹介した食レポなのかわからなくなってしまいましたが、、、夜も更けてきたことからこれくらいで締めたいと思います。ではまたね。(^人^)

中鳥島 伊射奈美神社の元社跡に行ってきた☆

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今は無人島になっている中鳥島。過去の大洪水から陸地より分断されて、なかなか島まで渡ることができませんでした。

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年末年始にかけて中鳥島周辺の水量がひいているという情報を入手していましたところで、たまたま近くを通ったことでチャレンジしてきました。

f:id:awa-otoko:20180106223915j:image(北側)

f:id:awa-otoko:20180106223943j:image(西側)

f:id:awa-otoko:20180106224150j:image(南側)

えぇ。めっちゃ砂に脚を取られ、川砂利につまずきながら歩きましたよ。(もうこの時点で疲れている。)

f:id:awa-otoko:20180106224612j:image(中鳥城の石垣)

さて、登るポイントはたくさんあります。行く人は各人のお好みで選ばれたらいいと思います。(当たりハズレ有り)

awa-otokoが登ったポイントは長年の勘から選んだのですがビンゴ。中鳥城(学校跡)の石垣前に出ました。

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やっとこさ竹と荊を掻き分けて出ると…

f:id:awa-otoko:20180106225249j:image(中鳥城跡・中鳥学校跡)

f:id:awa-otoko:20180106225514j:image(謎の建造物: 蔦が絡んでわからんかった。)

島の中で迷った場合によく目を凝らして周囲を見ればきちんと参道も残っているので、自分の所在地はわかりやすいと思います。

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さて、それではなかなかお目にかかることがないと思われる伊射奈美神社の元地の状況をお見せしたいと思います。

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現地に行くとなかなか感慨深いものがあります。

ま、伊射奈美神社の詳しい内容は他のブロガーさん達がこぞって挙げられているのでそちらをご覧になって下さいな。

f:id:awa-otoko:20180106230924j:image(十年前に建設された石碑。の裏な。)

ちなみにawa-otokoの考えは、中鳥島 伊射奈美神社の元社であるという事には賛同しますが、阿波国イザナミ神社の元社であるとは思っておりませんので悪しからず。まぁ、新年早々小難しいことを羅列するのも何なんで今回はここまで。

たぶん元社跡に行く人もいると思うので注意点を。イノシシのヌタ場とかが結構あるので鉢合わせしないように。登っても降りるポイントを間違えたら…  あと、目利きの人なら嬉しい拾い物ができるかも。(ここでは言わないけど。)

それではまた。( ´∀`)

2018 あけおめことよろ

f:id:awa-otoko:20180101014446j:image(天石門別八倉比賣神社)

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謹賀新年

明けましておめでとうございます。

f:id:awa-otoko:20180101014727j:image上一宮大粟神社

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新年さっそく阿波ノ国魂神 大宜都比売命の御祈祷を頂いてから粟神の神社 二社(上一宮大粟神社、天石門別八倉比賣神社)を参拝してきました。

忌部神は混雑が緩和してから参拝したいと思います。何はともあれどうぞ今年もお付き合いの程よろしくお願い致します。(^人^)

神山の新田八幡神社は本来何であったのか⁈

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楠正成、新田義貞という名将が戦死した後、四国の南朝方勢力の挽回するために興国元年(一三四〇)四月三日、義貞の弟である脇屋義助が四国官軍総大将に任ぜられて伊予国川之江城に入城した。義貞の二男義宗、義助の子式部大輔義治とその弟義広なども川之江城に集結したがタイミング悪く、脇屋義助が同年五月十一日に病死。その機を逃さなかった阿波守護職 細川頼春は大軍を川之江城にさし向け義宗はじめ土肥、得能の南朝方武将を攻めて城を落とした。義宗は難を逃れて伊予国宇摩郡下川邑で蟄居した後、応永四年(一三九七)当地で没した。義宗の従弟 脇屋義治は阿波の三好郡井内谷に入り、祖谷山の豪族勢力を頼みして時機を待ち、やがて八石城を築いて立て籠もり、四〜五年戦って抵抗したが八石城も落ちた。義治は阿波郡日開谷に逃れ、のちに貞光山中に隠れて応永二六年(一四一九)七月十四日に没した。

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阿波には新田一族の痕跡が多く残されています。新田一族を祀る新田神社は全国で徳島県が一番多く、県内で四十七座が存在します。これらの新田神社は新田義貞、義顕、義興、義宗、脇屋義助、義広らが祀られているのであります。新田氏を祀る南朝方に依る者達も平家同様に忌部(麻植)を頼って阿波に入ってきたのでしょう。

と、不思議なのは名西郡神山町金泉に鎮座する新田八幡神社です。なぜ神山町に新田神社なのでしょうか?

f:id:awa-otoko:20171226001950j:image(新田八幡神社
中世一時的に神山に入ってきた木屋平勢によって新田大明神が遷座されたとawa-otokoは推測しております。

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また、現在の「新田八幡神社」という社名からも新田大明神と八幡神が融合されたことが判断できるのではないでしょうか。

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通説で考えたらね。ここまでは。

で、さんざんこれまで新田氏絡みの展開で進めていきましたが、おもいっきり話題を逸らしてみたいと思います。awa-otokoは捻くれ者なので。(笑)

まぁ下の地図を見てみてくださいな。

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(それにしても地名が面白いなぁ。興味津々だわ。)

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今、新田八幡神社

昔、仁生田(にうた)神社

仁生田(にうた)が新田(にった)に転訛したのでしょうか。本来が仁生田(にうた)であったならば 丹生(にう)の意を含んでいると考えるのが当たり前でしょう。

辰砂 - Wikipedia

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阿波で丹生といえば若杉山遺跡が有名ですが、大宜都比売命の足取り、稲荷神発祥の地との繋がりを考えれば若杉山遺跡から神山 丹生山まで辰砂採取を移動していった形跡とリンクするのではないでしょうか。(考え過ぎ?)

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新田八幡神社が鎮座する神山町上分金泉では古来から財宝が眠っているという伝説がございます。この財宝が古来から発掘されていた辰砂(朱)のことであったならば…

思い出してみてください。上一宮大粟神社神殿の朱、新田八幡(仁生田)神社の屋根の色を。

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辰砂と稲荷、大宜都比売命。もう少しこの繋がりを深く調査してみたいと思います。(;´д`)汗汗汗…

(前半の新田氏は全然関係なくてすまんの。)