awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

下浦山王大権現に大宜都比売命の影

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どうも。awa-otokoです。ちょっと久しぶりにリークしちゃおうかなと思って投稿です。

さて、題名にある大宜都比売命の御神名を確認してすぐに閲覧した方も多いのではないでしょうか。昨年から上一宮大粟神社宮司の精力的な活動と阿部但馬の残した正統記、宮司家口伝による神山町に於ける大宜都比売命神話に心を躍らせる方は少なくないはず。

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awa-otokoもその一人で神山町以外の大宜都比売命を密かに探求していたのでした。その甲斐あってか埋もれていた大宜都比売命の一端を見つけましたので報告したいと思います。

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場所は名西郡石井町下浦。

山路を通過すると必ず目に入ってくる木製の山王鳥居が建つ日吉神社。ちょっと鳥居の向きに違和感があるので当地に赴けばすぐにわかるはずです。(写真の鳥居さんではないです。木製鳥居は撮影し忘れたのだ。)

それでは本題へ。

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大字下浦に在り 祭神大山咋命にして大宜都比売命を合祀す 或は曰ふ 永禄元亀乱後一宮成助が一族此の村に住居し合祀なせしが主神山王大権現は最古の社にして棟札の古き者(物)は文字磨滅して更に辨ずべからず 少しく字形の存するものを水に浸せは文禄五壬申年十一月二十五の文字幽かに見えたり

以上の文から一宮成助一族が当地に移住した際に一宮大明神を移遷したのでしょうか。しかも記録では最古の山王大権現とのこと。棟札札には文禄年間(1593年〜1596年)の銘が記されているらしいです。(棟札の記録が中世やないかーぃ。というツッコミはナシw たぶん山王大権現はもっとルーツが古いのちゃう?)

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さて、気になるのは大宜都比売命の御神名のほか、上に記した通りに最古の山王大権現ということ。

祭神の大山咋命については、名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、農耕(治水)を司る神なのだそう。(引用:wikipedia

したがって古に当地を統べた有力者を祭祀したものと推測できます。(もう一つの推測として大山祇神大山咋命に変化してしまったこともアタマの片隅に入れておかねばなるまい。)

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f:id:awa-otoko:20200123225016j:image(下浦八坂神社)
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また、当地は神山町とを隔てる山麓の古墳地帯で下浦山王大権現(日吉神社)の真東には八坂神社が鎮座し、素戔雄尊、奇稲田姫命大己貴命を祭祀します。昔は一里余り離れた若宮の地にあったとのこと。(ますます大山祇くさくなってきた?!)

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実は以前から着目していたのが石井町下浦から鴨島町上浦エリアに居住している古代氏族の末裔達。

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下浦から上浦の東西。北側の諏訪(多祁御奈刀弥神社が鎮座)の範囲では天羽・有持、もちろん阿部氏も多く居住しており、当地よりはさまざまな出土物が発見されています。これより古は板野郡田上郷に匹敵するくらい規模が大きい、しかも古代氏族の裔達の集落が存在したことが予測できるのではないでしょうか。

f:id:awa-otoko:20200123232225j:image(山王大権現鳥居横にある謎の石柱。何て刻んでいるのか読めないんだわ。)

また地名の下浦・上浦から推測すれば、山麓を流れる飯尾川の水位も古代では高く、現在の天石門別八倉比賣神社の山麓まで流れていたのではないかということ。これが何を意味するかというと、鮎喰川に合流して入田町・一宮町へ。さらには大宜都比売命のお膝元である神山神領へは船を利用すれば移動可能なので、当地には出入りが頻繁にあったことが推測できます。

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このように大宜都比売命の裔達である粟国造粟凡直の居住地域に、一宮大宮司家(一宮成助一族)が地母神 大宜都比売命(一宮大明神)を勧請しても大きなと衝突が発生するとは考えられません。

ということで今回の結論。

神山町から大宜都比売命祭祀の移動経路については神山から阿波町吉野川北岸を東進して鳴門大毛島までのルートしか見出せていませんでしたが、神山町から一宮町鮎喰川から国府町、気延山の山裾を移動して拡大していったルートも考えられるということです。(石井町中王子神社御神体阿波国造墓碑ですからね。やはり粟国造粟凡直一族レベルでの活動が顕著。)

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そして今回の下浦山王大権現 日吉神社付近は古から大宜都比売命・粟国造粟凡直一族の郷が存在し、この縁から一宮成助一族が居住したのではないかということです。

あ、、リークっていうほど大した内容ではなかったですね。ま、何かの参考になればいいかなとあげさせ貰いました。あとあといろんな記録から繋がることもあるので。

ということで今回はこれにてお終い。ではでは。