佐那河内の神社についての記録、御神宝いろいろ
今回は佐那縣こと佐那河内村を代表する神社の資料から伝説と神宝を駆け足でご紹介します。
(大宮正八幡大神宮だと⁈)
人皇四十二代文武天皇の御宇大寶三癸 卯年御神説有ニ依て第一本宮備前国宇佐宮より四十三代元明天皇和銅元戊申年二月初卯日佐那縣ニ宮柱太數立高間原二千高知りて斎祭る御迎ノ人ニ佐那大人猪飼眞人錦… あぁ読みにくい!!そして入力がめんどくさい=3 ということで、ここから早くもアバウトな記載で行きまーす。(いつも心がおれるんだ…)
(大宮神社 御神宝の矢)
棟札は四枚あったがいつのまにか消失した。写しをだしとく。とあります。あと文末は朝宮神社のことについて。ちょっとだけ書いたら朝宮神社は大宮神社の末社とあります。
おいおぃ。さらっと上八万の朝宮祠より佐那河の朝宮へ遷し…と書いているではないか!!時系列が崩れるじゃねーか。と、ここでawa-otokoの解釈を書いておきますと佐那河内→上八万→佐那河内ってとこですかね。上八万に行ったことで場所から宅宮神社との繋がりがクサいです。(前に書いたな…)そして次。神殿の扉に記されていた古歌の写しを… (※ 読める人だけどうぞ。私はめんどくさいから解読しません。)
んー、右の六社は佐那河内の総氏神だそう。あれ?通説とは違う内容ですね。ここでもawa-otokoの心の中を少し書きますと、妙見がニ社ありますが、こちらは神山経由の社だと思います。あと杉宮ニ社のうちの祭神である応神天皇は後から入ってきたものと推測。(杉宮は大宮神社の末社とあるため、祭神を置き換えしている可能性が高い: 大宮神社の影響を強く受けている。)あとは滝宮なのでスサノヲですね。やっぱりこのエリアはアマテラスとスサノオのウケヒの舞台だったのかな。佐那河内村では水に関わる神の祭祀が多いのでそこに少し着目しています。
この頁は佐那河内に存在した猿田彦大神宮についての記録したもの。(祭神の並びを見て何か気がつきませんか?: みなまで語らず。ですが。。。)そして地元の一部がやたら推そうとしている藍神について説明してます。笑。途中に是道教の神 猿田彦大神とありますねぇ。(←こんなん書いていいのん? ここも語れないじゃないですか。笑笑笑)
こちらの頁も藍神の説明が継続して書かれています。文末には猿田彦大神は岐の神、来名戸(クナト)の祖神であると書いてます。ただ、所在地関係のことや大宮神社でなぜ祭祀されたかなどの内容は全く記載されていません。
天岩戸別神社の古書でここまで多く記載されているものは初めて確認しました。(中に面白い内容も書かれていますがここには記載しません。探して。)簡単に確認できるとこでは是レ天石門別豊玉比賣神社ならん。と書かれているところですかね。
また、ここでは御神陵、御神宝の鏡について書かれています。御神宝は鏡で裏には松、鶴、亀が書かれているらしくこれはもしかすると岩戸の中に収納されていた物かもしれませんね。文末は御間都比古。戦国時代に社は破損とあります。
御間都比古 伝来の宝物リストです。御間都比古石二つとあります。龍神石と水神石。龍神は海中より、水神は勝浦川から持ってきたらしいです。
宝物リストに記されたものは猿田彦神社社宝として七ヶ井開家に保管されているとされ、これは御間都比古神社と猿田彦神社の宝物が混ざったということが言いたいのでしょうか。
鉾一振りと矢根のほか、阿波の青石による男根石と石船の御神宝もお忘れなく。また上の内容に付随する興味深い内容が書かれていて、三本松にあった御間都比古神社は戦国時代に社が破壊された時から大宮神社の末社であったら猿田彦神社の相殿で祭祀されたと記録されています。
はい。駆け足の紹介でしたが如何だったでしょうか。古書を読める方が読んだら掘り出し物がある資料ですね。ただ全体を通してみて言えることは中世長曾我部元親に荒らされた被害が余程酷かったのか、いろいろ置き換えている部分があるのがうかがえるところです。まぁこれも歴史の中の事象として受け止めなければいけないものですが、調べるにあたって誤解を招きやすいところが惜しいですね。
佐那河内村は◯◯◯が推している手力男命伝説だけではなく、猿田彦、天石門別豊玉比賣(壹與)、天照、素戔嗚にも関わる重要な地域。
まだまだ調べれば出てきます。時間があれば今回の投稿で端折った部分を掘り下げて進めるかも。ではまた。(^○^)