木屋平に伝わる七十五膳神事
木屋平村には安徳天皇と平家にまつわる伝承が数えきれないほど残されている。
寿永四年三月二四日の壇ノ浦の合戦によって平家一門は滅亡。この日を最後にして、四百年の平安時代の歴史が終結した。平家の残党は戦場を逃れて全国に散り、山深く隠れて再起を計ったと伝わるのは皆が知るところである。新中納言 平知盛は我が子の伊賀守平知経に一騎当千の勇士達をつけて安徳天皇と草薙剣を護らせて四国に落とさせた。
阿讃山脈を越え、名西郡・麻植郡の東宮山へ。この尾根道は古代から木屋平に通じる主要道路である。そこから大浦山を望む川井峠へ抜け、主従は幼い安徳天皇を背負い、草薙剣を捧げ持って集落の中の道を避けながら山と山の険崖を進み落ち延びていった。
一行は山を下り、現在の八幡(やわた)へと辿り着くことになる。辿り着いた勇士一行は全員で七十五人。多数の土地の者が集まり、代表である川窪氏と大東氏は粟飯を炊いて七十五人をもてなした。
これは現在でも新八幡の祭礼として伝承されている。
当家が飯を炊き、七十五個のかわらけに盛ってお供えする「七十五膳飯」である。
粟飯を炊いて安徳天皇をもてなした「粟田(あわた)」から「やわた(八幡)」に訛化したそうである。また、粟飯を食した際に使用していた木の箸を呪いのために投げ、その箸が生え付いた場所に新八幡神社を建立したと伝えられている。
今回は「七十五膳神事」を重要視しているG〜たらさんが喜びそうなネタでした。
阿波国で「七十五膳神事」を継承する神社を追ってみると…
今回はここまで。木屋平編、ちょっと続きます。