awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波が粟であるために

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名西郡なる大粟山 國号起こりし由の古傳にありて 今猶大粟一谷の諸人とく知るところなり
粟を蒔き専ら御食功徳坐て御名を大宜都比売神亦の御名を大阿波女神と美称奉り 其粟を蒔き給ひし地を大粟山 亦名 粟生山と云ひ 国号を粟国と云伝ふ也
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阿波国内には阿波郡と称する地がある故に、この阿波郡から国号が起こった地と考えられている方が多いと思われます。現に阿波郡には忌部神を祀る粟嶋(善人寺島)などありましたから。
 
今回、内容を引用した「上一宮大粟神社口碑伝説考」では、冒頭の内容を声を大にするかのように、しかも何回も何回も繰り返して当事例を書き記しております。
 
読んでいるうちに私も洗脳されたのか( … 笑)、でも内容には多々うなづける部分もありましたので「上一宮大粟神社口碑伝説考」の内容を基に
「阿波」が「粟」たるべき。を紹介していきたいと思います。
 
まずは通説です。
古代、現在の徳島県の北の地域は粟の生産地だったために粟國、南の地域は長國と呼ばれていた。『古語拾遺』によれば、神武東徵において忌部氏を率いて、木國の材木を採取し畝傍山の麓に橿原宮を造営した天富命が、肥沃な土地を求め當地の開拓をし、穀・麻種を植えたという。のち、律令制において長國造の領域を含め令制國としての粟國が成立した。和銅6年(713年)、元明天皇による好字令で、地名を二字で表記するため「粟」は「阿波」に変更された。(Wikipedia 阿波国 阿波の名称と由来より)
 
内容にはなぜ「粟国」なのかという考証が含まれてないですね。確かに「海(アマ)」、「粟(アハ)」、その他の説があり一つに絞りきれるものではありません。
 
「上一宮大粟神社口碑伝説考」では
「上古 板野 阿波 名方等の三郡の地は「アハ」と云い、一縣の地にてありしを分かれて三郡なり 」とあり、即ち大宜都比売命の神裔である粟凡直一族の直轄地だったそうです。
 
それこそが「アハ(粟)の国」であり、阿波国の原型と伝えているのです。
板野・阿波・名方(名方郡は後に分かれて名東郡名西郡)の三郡の民は皆、大宜都比売命(阿波咩命)と積羽八重事代主命(三嶋の神)の氏子であり、粟嶋には「阿波咩命(大宜都比売命)」の社が二社存在していたことを挙げております。
 
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また、その内容にこれに付随しますと大宜都比売命の夫である積羽八重事代主命の流れをくむ「事代主命」を祭祀する「事代主神社」が阿波市伊月に存在するのが上古の名残りとも言えるでしょう。
 
その他、大宜都比売命の御子である「若室神(物忌名命)」が上板町で葦稲葉神となっていること(現在は殿宮神社に合祀)も挙げることができます。
 
神名で説明すると分かりにくいですが、大宜都比売命一族は皆、粟凡直一族ですから上記の内容から板野・阿波・名方の三郡に粟凡直一族の祭祀が存在していたことが説明できる訳です。
 
 
Q: なぜ「粟」なのか。
 
単刀直入に申し上げると大宜都比売命が「大粟山の大粟姫」だからです。
 
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前回、大粟山頂の天邊の森で大宜都比売命の祭祀と国の運営を粟凡直一族が行っていた内容を記載しました。
この大粟山で大宜都比売命自らが粟を蒔き、縣の民の食を助けた功徳から美詳を含んだ亦の名を「大阿波(粟)女神」、即ち「大宜都比売命=大粟姫=大阿波女神」となり、國号を粟國と言い伝えられている、とあるのです。
 
拙ブログでもこれまでに散々「大宜都比売命は阿波の國魂」と謳っておりましたので、こちらの内容を含む投稿が遅いくらいでしょうか。(笑)
 
 
Q: なぜ上一宮大粟神社が阿波国一宮と認識されていないのか?
 
大宜都比売命には「 兄 」が存在しておりました。
これが有名な天日鷲神」。亦の名を「大麻比古神」でございます。
こちらも上古は「粟神」とされていたために後世で混同されたのが大まかな理由の一つでしょう。
 
その中で「天石門別八倉比賣命」が、いづれの神か分からなくなっていたことが混同された原因でした。(大宜都比売命=天石門別八倉比賣命)
 
本来なら現在の上一宮大粟神社は「天石門別八倉比賣神社」でなければいけないのです。
 
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(往古の上一宮大粟神社見取図:天石門別八倉比賣神社とある)
 
「天石門別」は磐門たる神領の地形を示し、「八倉」は書いて字の如く八つの倉を治める姫を示すものだったからです。
それでは「八つの倉」とは??

awa-otoko.hatenablog.com

 

※ 大宜都比売命=壹与=豊玉姫説は乃良根公様のコメントを読むべし!

awa-otoko.hatenablog.com

「八つの倉」は大粟山を中心に大宜都比売命 八伴神の倉(宮)が存在していました。
また妄想か… と疑われるのも何なんでそれを含んだ文献を提示致しましょう。
 
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神領の口傳では大宜都比売命の八伴神の社が往古には存在したとのことです。
 
  1. 大久保の牛頭天皇
  2. 大野地の腰宮葛倉明神社(葛木男命)
  3. 白桃名の妙見宮
  4. 上角名の津々比賣明神社(葛木咩命)
  5. 筏津名の天皇
  6. 野間名の妙見宮
  7. 北名 一社神名不詳
 
こちらは皇子神社や牛頭天皇天皇宮、妙見宮などに名を変えて現在でも存在している社らしいです。(現在のところ大埜地の葛倉明神以外は未確認です)
私見ですが、皇子や天皇の社名がついているところは御子や血縁者を祭祀している可能性があること。そしてこれらの社は後世その場所場所に粟国造家の別館が存在していたと考えられるのです。
 
いわば大粟山は「大宜都比売命」を核とした総本山であり、本来は大粟山頂の天邊の森に鎮座した社は「大宜都比売命」を祭祀する「天石門別八倉比賣神社」であった訳です。
 
それが明治期に至り神仏分離の際に埴生女屋神社と改名され、社も大粟山の麓に移動、国府の杉尾大明神に「天石門別八倉比賣神社」の社名が移ったために氏子が大激怒したのでありました。 
勿論、杉尾大明神(現:天石門別八倉比売神社)も大宜都比売命を祭祀していたのはほぼ間違いないと思われるのですが、大宜都比売元社の氏子からすれば、分社が一宮を名乗るのは当然の如く許さないでしょう。
このような背景から国府の杉尾大明神の氏子が官幣大社の依頼を断わった本来の理由であるように捉えております。
 
話を戻します。
 
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(長々とありますが読んだ方が為になることを書いてます。線引きは以下の内容を指しております。)
 
天日鷲命」は、「大宜都比売命」と共に大粟山にて国営を執り行なっていたという口傳も残されていることから「粟神」とされたと考えます。
 
そして粟凡直一族直轄地の板野郡に移動し、鳴門市大麻に至り、「天日鷲命」は麻を使用した業績から「大麻比古神」という忌部神の名前を付けられて今に至るのではないでしょうか。
 
私見は置いといて、文献から神山町から板野郡・阿波郡の繋がりが出てきました。やはり大宜都比売命をはじめとする神は様々な神の名を付け加えながら他の神とも習合し、また独り歩きしております。
 各縣の口傳や古文書は大切にしないといけないですね。
 
ちなみにここらの資料から忌部神の動きも追えそうな感じです。
極端な話、天津神国津神のしがらみに囚われているようでは絶対に記紀神話の神々の真実は探れません。記紀神話の内容はあくまで大まかなヒントとして捉えて考えましょうね。
 
 
 
オマケです。
大粟山のとある場所に墳墓が存在します。
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場所は明確に教えられませんので悪しからず。
(分からないままにすぐ現地に行くバカがいるので 。。。)
 
そしてココが天邊の森。
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言うておきますが興味本位で行かないように。神罰が降りますよー。(笑)