祭壇があった神社(神山町上分川又 黒松大明神)

践祚大嘗祭の記録は平安時代 醍醐天皇の御宇延喜十三年(九一三)に編録された延喜式 巻七に記されたのが唯一の文献となっていますが、この時代より千年以上も遡った記紀の神代から続いている最も重要な神事なのです。
この「天日嗣の神事」を実行するには御衣御殿人(みぞみあらかんど)が作る「麁妙(あらたえ)」、「天の御饌(みけ)」、「長の御饌(みけ)」、「遠つ御饌(みけ)」、そして「祭壇」が必要であるとされます。
これは往古より先祖が身につけた聖なる衣布を製作してまとい、常食していた山、海、遠方の食物を中心とした特産物を供え、神木を祭壇で燃やして日嗣の御子に「魂ふり」を行うからです。(魂ふりとは神(歴代の偉大な大王の魂)を自身に降ろすこと。または神憑りになり交信することを意味すること。)
朝日が昇る前に「魂ふり」の神事を終え、朝日が昇った時点で「日嗣の御子」が「日の神子(ひのみこ=ひみこ)」となるのです。
それでは一つずつ説明していきましょう。


まず御衣御殿人の献上する麁妙とは、天日鷲命(あめのひわし)直系である阿波忌部氏 三木(貢)家が必ず用意することが決まっております。ちなみに三木家がある木屋平は「天小屋根命(あめのこやね)」と「天日鷲命」の居住地。


次に「天の御饌」。


「長の御饌」。
これは長国から奉供される「鰒(あわび)」、「鰒鮨」、「細螺(したたみ=さざえ?)」、「棘甲蠃(うに)」。「石華(いしはな)=丹」。
そして太古より同族が居住していた紀州より奉供される「遠つ御饌」。





(黒松八幡神社)
天行(桁)山の麓にあるこの集落では人々が黒松を切り倒して祭壇をしつらえたといいます。
(この黒松八幡神社については山深い場所に鎮座するにもかかわらず阿波(泡)の神紋が施されているのが目につきます。これは海人族が当社の祭祀において関係していることになります。これは何らで長国より海人族が行き来した痕跡なのではないでしょうか。)



(上一宮 大粟神社)
この神は別名「御饌神(みけつのかみ)」と呼ばれ、同神とされる「倉稲魂神」は「三狐神(みけつねのかみ)」とされます。
そして大宜都比売命自体が阿波 長国より来たという伝承も残さていることから、長国に行き来していた可能性があります。(長の御饌と遠つ御饌の調達のためか)
これらがうまく符号すれば「大宜都比売命」=「天照日の御子(巫女)こと卑弥呼」となるのですが、、、、
今回はこれくらいで。。。