磨墨の天馬石(小松島 田野)
磨墨とは梶原景季の愛馬であり名馬として知られていました。磨墨に乗った景季は1184年(壽永3)の宇治川の戦いで、やはり名馬の譽れ高い池月(いけづき)に乗る佐々木高綱と先陣を争った(宇治川の先陣争い)のは有名な話。
【宇治川の先陣争い】
元暦正月二十日、木曽を攻めんと宇治、勢多に着いた義経は河の滸に高櫓を作らせて、此の上に登られて味方を下知し、矢立の硯を取り寄せられ「宇治川の先陣と剛の者とを次第次第に注し、鎌倉殿へ見参に入るべし。」と仰せ出されたので軍兵は勇みに勇み、先づ武蔵國の住人 平山武者所季重、橋桁の先陣をなし、佐々木太郎定綱、澁谷右馬允重助、熊谷次郎直実、子息小次郎直家、以上五人継いで渡したけれども、未だ川ん渡す者がない。
畠山庄司次郎重忠は氣をいらつて、兼ねての馬用意はかかる時のためである。重忠渡して見参に入れんと軈て渡そうとする折しも、平等院の小島崎から勇ましげに馬を宇治川に乗り入れたのが、例の佐々木、梶原であった。
此時の有様を「源平盛衰記」ではこう記している。
「平等院の小島崎より武者二騎かけいでたり。梶原源太と佐々木四郎となり。景季が装束には木蘭地の直垂に黒革縅の鎧に三枚目甲の緒をしめ、重藤の弓の中を取り、二十四差したる小中黒の矢負ひ、練鐔の太刀佩いて、鎌倉殿より給はりたる磨墨といふ名馬に、黒塗の鞍置いて騎りたり。高綱は、褐の直垂に、小桜を黄に返したる鎧に、鍬形打つたる甲に、笛藤の弓の真中取り、二十四差したる石打の征矢、頭高に負ひ、嗔物造の太刀帶いて、これも鎌倉殿より給はりたる生唼に、黄覆輪の鞍置きてぞ騎りたりける。」
続いて「誰が先陣と見る處に、源太颯と打ち入りて、遥に先立ちけり。高綱いひけるは、如何に源太殿、御邊と高綱と、外人にてなければかく申す、殿の馬の腹帶は、以ての外にゆるまつて見ゆるものかな、この川は大事な渡なり。川中にて鞍踏み返して敵に笑はれ給ふなといひければ、さもあらんと思ひて、馬を留め鐙踏張り、立ち上り、弓の弦を口に咥へ、腹帶を解いて引き詰め引き詰めしくる間に、高綱さつと打渡しける。(中略)向ひの岸へ打ち上り、鐙踏張り、弓杖突いて、佐々木の四郎高綱宇治川の先陣渡したりやと名乗りも果てぬに、梶原源太も流れ渡りに上がりけり。」
このように梶原景季は全く佐々木高綱の策略にかかって宇治川の渡しにはとうとう第二陣に落ちてしまいました。これを非常に憤り怨んだのは主人の梶原より飼馬の磨墨でありました。
謀れたが原因で負けたとあっては諦めることができず、磨墨はこの口惜しさをどうして晴らそうかと思いわづらっているうちに、やがて生唼が生國 阿波國へ歸ったということを聞き、多年の怨みを生唼の上に抱いていた磨墨は、其怨みを晴らしもやらずに生唼を退したことを非常に口惜しことに思ったとのこと。
その堪えられざる恨みと憤りは、せめては自分も阿波國へ飛んで行ってこれから先に決して彼國から生唼のような馬を出させまいと、怨みの一念は凝ってとうとう天を翔り、此地に飛び来って石と化った。それが現在も田野に残る天馬石だと言われています。
あー長かった…。
このように天馬石は磨墨という名馬が生唼(池月)を怨んだことにより化生した岩と伝わります。
しかし、、、どう見ても馬に見えないんですが…(苦笑)
そして磨墨は同じ小松島の新居見にも「磨墨の塚」があり、これは屋島攻めの途中で船中にて死んだ磨墨を着船した時に埋めた跡と伝えられています。
これは「阿州奇事雑話」では、「恐らく普通の軍馬の船中にて死せしを、ここに葬りしものであろう。」と記されています。
結局のところ磨墨の天馬石、磨墨の塚は死骸の埋まり、埋まざるにせよ、塚として立てられたものと考えられているようです。
昔からこういう曰くつきの場所には何ら埋められたり、隠されたり、はたまた神を祭祀している場所であったりするもので、義経像がたてられている小山には驚くことに三つの神社が鎮座しております。(妙見、皇子、八幡の三社)
そして一番高い場所に地神塔。
こちらの石積みは年季が入ったもので赤いのはもしかしたら朱?とか考えてしまいます。
(皇子神社)
(八幡神社)
妙見神社は年配の方がデート中だったので撮影なし!
(一番高い位置にある地神塔 祭祀跡の形跡あり)
この場所も例外ではないような気がしますので、ちょっと調べてみたら面白いかも。。。