南淵の坂田寺(丈六寺)
現在の徳島市丈六町、旧地名 多家良村南淵が用明紀に記された丈六の仏像がある場所。
さらに昔は片塩(かたしほ)郷の坂田邑と呼ばれており、もともとはシキツ比古タマテミ命(安寧天皇)が宮を定めし宮跡で、ここから渋野天王森に続きます。
その中で現在でも有名なのは丈六寺。
丈六寺は白鳳年間の開基とされる阿波最古の名刹と云われていますが不明な点が多いです。
丈六寺(じょうろくじ)は徳島県徳島市丈六町丈領に所在する曹洞宗の寺院。山號は瑞麟山。詳しくは瑞麟山 慈雲院 丈六寺。
本尊は釈迦如來(本堂)と聖観世音菩薩(観音堂)。寺號は丈六仏の観音像を安置することに由來する。
(Wikipediaより)
先にも書きましたが、日本書記の用明二年四月条に「南淵の坂田寺」に木の丈六の仏像を造り祀ったとの記述があり、おそらくこれが丈六寺の起源であると思われます。
その他、あまり知られていませんが丈六寺の裏山は大国主一族の陵墓地帯。今までに石棺が多く出土されています。(丈六寺境内にその一部が無造作?に置かれています)
また現在の山号である「瑞麟山」は「燐端山(あきばやま)」が誤写されて変化した可能性が高いと思われます。
それでは寺名のもとになった木造聖観音坐像をイラストで見てみましょう。(観音像の許可なき撮影は禁止されていますのでw)
その他、文化財として、三門、本堂、観音堂、経蔵附棟札5枚、絹本著色細川成之像があります。
オマケ
戦国時代、土佐の戦国大名長宗我部元親は阿波国に攻め込んだ。那賀郡まで攻め入った際、ここを治める牛岐城(富岡城)主新開入道道善(新開遠江守忠之)は勇猛で知られており攻めあぐねた。元親は一計を案じ、和議を申し入れた。天正9年10月16日(新暦1581年11月12日)、道善を丈六寺に呼び出し酒宴を開いた。和議の条件として、道善に対し四国統一の後に富岡城主の地位の確保し勝浦郡を与えるという案を示した。好条件に道善主従は大いに満足し、酒宴は盛り上がった。道善主従が、夕刻、宴を辞して帰ろうと縁側に出たところを、隠れていた元親の家臣に襲撃された。道善主従も応戦したが、多勢に無勢で全員殺害された。この時の手形や足形の血痕は、拭っても消えなかったと言われる。
現在、この縁の板は寺内徳雲院の天井板として用いられており、手形・足形の血痕らしき赤い形が認められる。(Wikipediaより)
今尚生々しい血痕が残っております。丈六寺は血天井が残されていることでも有名です。