小碓命から倭建命へ そして東道巡行(東道神社)
今回は倭建命(日本武尊)のお話。
記紀の内容を別々に引用してみました。
【古事記】
父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の違いから、小碓命は素手で兄をつまみ殺してしまう。そのため小碓命は父に恐れられ、疎まれて、熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比賣命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。
【日本書紀】
兄殺しの話はなく、父天皇が平定した九州地方で再び叛乱が起き、16歳の小碓命を討伐に遣わしたとあり、倭姫の登場もなく、従者も与えられている。
先代旧事本紀
(景行天皇)二十年(中略)冬十月 遣日本武尊 令擊熊襲 時年十六歲 按日本紀 當作二十七年とあるのみ。
【古事記】
小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。
【日本書紀】
熊襲の首長が川上梟帥〈タケル〉一人とされる点と、台詞が『古事記』のものよりも天皇家に従属的な点を除けば、ほぼ同じ。ヤマトタケルノミコトは日本武尊と表記。
【古事記】
その後、倭建命は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換して太刀あわせを申し込み、殺してしまう。
【日本書紀】
崇神天皇の条に出雲振根と弟の飯入根の物語として、酷似した話があるが、日本武尊の話としては出雲は全く登場しない。熊襲討伐後は吉備や難波の邪神を退治して、水陸の道を開き、天皇の賞賛と寵愛を受ける。
東征
【古事記】
西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は再び倭比売命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭比売命は倭建命に伊勢神宮にあった神剣、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい」と言う。
【日本書紀】
当初、東征の将軍に選ばれた大碓命は怖気づいて逃げてしまい、かわりに日本武尊が立候補する。天皇は最大の賛辞と皇位継承の約束を与え、吉備氏や大伴部氏をつけて出発させる。日本武尊は伊勢で倭姫命より草薙剣を賜る。
最も差異の大きい部分である。『日本書紀』では兄大碓命は存命で、意気地のない兄に代わって日本武尊が自発的に征討におもむく。天皇の期待を集めて出発する日本武尊像は栄光に満ち、『古事記』の涙にくれて旅立つ倭建命像とは、イメージが大きく異なる。
【古事記】
倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受比売(宮簀媛)と婚約をして東国へ赴く。
【日本書紀】
対応する話はない。
(脇町 建神社:写真はネットより拝借しました)
まず、「熊曽の建兄弟(くまそたける)」ですが、日本書紀では「川上乃建(かわかみたける)」と記されている勇者です。
「小碓命」は阿波の伊勢で巫女である伯母 「倭比賣命(やまとひめ)」と会い策をめぐらせて「熊曽の建」を討ちます。
肥河とは現在の鮎喰川のことで、「伊豆毛建」を討った後に肥河の河口の西岸を居住地としています。これが現在の石井町になります。
(川島町 東道神社)
西の蛮族達を退治し、落ち着く暇もないまま東の蛮族を討つために東方遠征の準備を始めます。
川島城址は元来、「東道神社」の社地でありました。川島城を建立する際に「東道神社」は東側の斜面に小祠として移遷され、規模が極端に縮小されてしまいました。
その「東道神社」で「倭比賣命」に東道巡行の安全祈願を行い東へ向かったのです。
「倭は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもる 倭し美わし」