アマツノカサヒコ?(天都賀佐比古神社)

御祭神 級長津彦神 級長津姫神
由 緒 当社は西暦6世紀以前に創建されたものと思われ、古墳時代後期、美馬郡境のあった大村郷(郡里)一帯の住民及び郡領が奉仕していた神を祭り風災を鎮め五穀豊穣を祈った由緒ある神社でその神威顕著な所から延喜時代式内社に列せられその後郡里の総氏神として盛大な祭が行われていた古社である(社頭石碑)

また、当社の鎮座するところに「天ノカサツカ」という地名があり、往古は大社であったと伝えられています。
以上のことから、天都賀佐比古神社は笠造り集団を統率した
天津(アマツノ) 笠(カサ) 彦(ヒコ)が社名になった神社
なのではないかと考えます… (推定です)
(笠彦の神名は特に見当たりませんが丹後国の加佐地方にはカサヒコとカサヒメの伝承が残ります)
その他、天都賀佐比古神社は(現鎮座地より)二百㍍西の宗重に鎮座し、旧郡里(こうざと)村里分の総氏神でありました。

さらに郡里村に西接する旧重清村(倭大国魂神社の鎮座地)の荒川の里にあるとされ、同神社の境内には「祠畔(ホコラノホトリニ)古塚三あり 又廃瓦あり 古色欝然、往々地を穿て黒玉、塗金環及び銅器等を得る」と記され、複数の古墳を伴った神社であることがわかっています。

御祭神は級長津彦神 級長津姫神。
藩政時代の文献には「轟大明神」、「轟宮」などと記されており、今も土地の人は「轟さん」と呼んでいます。(轟とは音が大きく鳴り響くさまを意味します)

昔はこの神社の前を下乗せず乗馬したまま横切ると勢いよく投げ飛ばされ、吉野川を西上する舟が帆をかけたまま通ると転覆すると伝えられました。
このような災難を避けるために御祭神は北向きに鎮座され、古神札には「日本一社北向鎮座」と記されている風神なのです。

以上のことから、、、
倭の笠縫邑(カサヌイムラ) 笠造り集団の伝承から「 天津賀佐彦神社(アマツノカサヒコ)」の社名がつけられた。
後々の吉野川の氾濫や暴風の伝承から「轟大明神」という風の神に変化した。のではないかと考えています。
当社に近い「段の塚穴」や「大国魂神社」が高い位置に鎮座していることから「天津賀佐彦神社」も類にもれず、もともとは北側にある山麓に鎮座していた可能性があるのではないかと推測しています。
現在の鎮座地付近は笠造り集団が市などを開いた場所(吉野川から舟で寄る場合には適した場所)で、そこに神社を目印、またはコマーシャル的なかたちで降ろしたのではないでしょうか。