豊国法師 阿波での活動(亀山神社と阿王塚山)
(阿王塚山 不動尊堂内)
この弔寺として建立されたのが大寺。
往古は全域がこの寺の寺内、当時の日本国最初にして最大の寺でありました。現在は大寺の建物は残されていませんが地名に板野町大寺。あとは当地に門居の井戸が残されるのみとなってしまいました。
(怪しい不動尊)
院号もなくただ大寺といわれるのみのこの寺、寺僧が「豊国法師」でありました。
豊国(とよくに、生没年不詳)は、6世紀ごろの僧。豊国法師(とよくにほうし)の名で知られている。
『日本書紀』によれば、587年(用明天皇2年)用明天皇が病気となったとき、天皇が仏教に帰依しようと群臣に諮ったところ、賛否両論はあったが、その中で蘇我馬子が賛成したことから、穴穂部皇子に案内されて内裏に入ったのが豊国であったという。(Wikipediaより)
「豊国奇坐」を運営していた僧達それぞれを「豊国法師」と呼んだようです。
「豊国法師」は仏教をひろめ、王都阿波の守護を祈願するために四方の峰々に玉厨子を納めています。有名なのは南の一角、薬王寺 奥之院とされる玉厨子山。
これは予想ですが、北は大山、東は籠山である日峯。西は加茂山くらいかな。(適当…)
当時は山上、峰々に造られ寺とは名ばかりの積石の小さな石堂ばかり。それも神代より神祀りの宮内の一部に作られていかれたようです。
「豊国法師(の一人)」は巡礼の途中、長の舟泊、木岐で亡くなり、弔の寺が木岐日吉峯の木岐寺と伝わっており、現在日吉峯の下におろされた日吉明神と並んで「真言宗神護山功徳院真福寺」として、現在も「豊国法師」を弔っているようです。
という訳で南の一角、薬王寺奥の玉厨子山の伝説を残した「豊国法師」が祀られているようですね。
上板町大山寺に名前を残す僧「西範」も「豊国法師」であった可能性が高いです。
阿波の東西北の玉厨子を納めたそれぞれの「豊国法師」の足取りを調査したら、かなり面白いネタが出てくるような気がします。