太郎笈(剣山)
(剣山頂上付近 宝蔵石で撮影された昔の写真)
(上の写真と同じ方向から撮影してみた)
(絶好のコンディションで撮影した現在の宝蔵石)
さて、当ブログも今回でやっと100投稿目。
節目には自分の特にお気に入りの場所を紹介したいと思っておりました。
今回は阿波が誇る霊山中の霊山「剣山」について、とある文献からの記録と(ど素人の私が撮影した)写真とともにご紹介します。(笑)
剣山は木屋平龍光寺の奥山なり、寺より一里ばかりに垢離取川(こりとりがわ)(此の水至て凄冷なり、これを浴びるに戦慄するほど寒し、此の流水三ッ木山を経て穴吹村に出て吉野川へ落つるなり)木を横たへて橋とす、岸頭に朱の鳥居あり、此の所に不動尊の銅像を安置す(此の処迄は道さのみ嶮しからず、山路にして平坦なり)是より二十丁計嶮しくて登りて庵あり(老人ありて奥院参詣なるとならざるを神に伺ひて登山の人丶に示すなり)
剣山は昭和初期まで女人禁制の霊山でした。
現在は見ノ越まで車でスイスイ。あとはリフトでのんびり風景を楽しみながらというパターンが多いですが、昔はコリトリで数日間身を清め、龍光寺で準備をしてから登山したのです。
一丁計行て鍾馗堂あり、七八間ばかり石磴(かんぎ)を登りて前神に至る、藤池権現と称す、二社相並ぶ(二間四方計)側に通夜堂あり(四間に六間)前に廐あり木馬を納む(一丈四方計)此の所三丁ばかり少勾配(かたさがり)なる平地なり(六月御祭時には此の熊笹原を刈そぎて神輿御いさみあり、例年四月より八月迄は登山す、九月より三月末までは雪深くて参詣ならず)
樹木なき所より臨み見れば東に高越山奥野の明神の峯見ゆる二峯の間より遥に焼山寺の弥山さし出たり(前神の森の辺に牛皮消〈イケマ〉といふ草多し)是より奥院へ行に同じく深樹生繁りたり、二十丁ほどは坂道殊に嶮しきを凌ぎ登て山の横峡を熊笹、ねざさ繁りあひて道見へず、かき分けつ丶峯つかたの峡なる小谷を幾等共なく上り下りして大木の倒れたるを潜り、又は踏み越などして又三十余丁も来つらんと覚しくて小剣に至る、数十丈の大厳のもとに祠二つあり、一は小剣の御神、一は磐間戸(イハマト)の神なりとぞ。
(小剣神社)
この後も写真で紹介しますが、小剣神社のほか古剣神社、大剣神社など様々な神々が祀られています。
ちなみに頂上 宝蔵石神社は「石凝姥命(いしこりどめのみこと)」が祀られているんです。
(宝蔵石)
(宝蔵石神社)
此の所数千丈の崖の上にて大木の梢足の下に揺ぎ土地いと狭く二人並びて拝する事あたはず。(右の方の峭峡を五丁ばかり下り、樹林の中へ入りて山神の御遊所とて大木の枝垂れたるに、老蘿か丶りて舎屋の形をなし、或は前栽仮山のごとく、又龍虎鳥獣の形、其の余奇異の形、風色言語に述がたし、悉く葛蘿のおのづから生てなれるなり、然も落葉等の塵少しもなくして奇麗さいはんかたなし)
(剣神社)
さて(元へモドリ)山の鼻にさし出たれば左に付て廻り登る、又すこし指出たる所に禅定場といふ絶壁あり、爰に滝あり、亘り七八寸、深さ一尺有余、岩を穿て斜に落つ、数十丈美麗なり(禅定場の岩上十余間四方計濶く瓢箪池あり)此の所より見るに眼下に木屋平、焼山寺、高越山、奥野の峻峰も前神にて見しごとく山高いけれどいと近く、川井峠東宮城(南朝の東宮御座ありしとなり)
剣山は修験道の地。様々な行場が残されています。
(お鎖場)
(不動の窟 入口)
(不動の窟内部)
(不動の窟内 不動尊)
特に不動の窟内に湧き出る御神水は絶品。汲みに降りるだけで御利益がありそうです。
(窟内はもちろん真っ暗なのでライトを口に咥えて探索しました)
直下に見ゆ、初め前神より紆曲盤旋して登臨すれば、あらぬ方へ行やうなりしかど、かの上ッ方に来て又東にや向ふならん、さて十丁ばかり登て小笹原へ出る、大剣も同く大厳の下に小祠一つあり(二尺四方計)則ち大剣の御霊なり。
(大剣神社 御神体の岩)
(大剣神社)
いはほは小剣よりや丶小さく聳へて渓に臨めり(此の谷祖谷川の源なりと)道は笹丈高くて行先みへず、掻分行くに踏みすべり躓き倒る丶事度々なり、六七丁ばかり行て絶頂に至る、其の広濶、眼の限りなし、小笹長一二寸生て芝草のごとし(風常な烈しければ稀に木ありても悉く屈伏せり)深山躑躅(花白く大さ白丁花〈ハクチヤウ〉のごとし)亘り五六尺より三五間土際より枝生て高さ二三尺に過ぎず、皆な此の笹原に生ず、たとへば広き原に大小の笠を干し並べたるごとし。
(古剣神社)
其の間に所々に五尺、一丈の奇石ありて奇麗さ比類なし、まことに造りなしたるがごとし、是を神の御花檀といふ。(此の所四郡の巷とやいはん、東北の谷は麻植郡木屋平の源。辰巳は那賀郡北股川の源。正南は海部郡久井谷長川の源なり。西北は美馬郡祖谷山一宇の谷なり、
さて眺望は北西の国中は更なり、讃岐伊予の小島、九州あたりの山も幽に見ゆ、東南の海辺、谷々、隅々眼下に見へて徳島佐古町の家々、庄町石橋まで悉く見ゆ、却て近き幽谷は雲霧に阻て見へず、凡そ行程十四五里隔てたり、一国の谷川ことごとく当山の下流なり、其の高きことおひ量るべし)
引用の文章では、かすかに九州まで見えるとありますが流石にそれは難しいでしょう。(笑)
天気のいい日は四国最高峰の石鎚山は見えるそうです。
此の間二十丁ばかり少し下りて平家の馬場といふに至る、横一二丁計に五丁ばかりの間、山の上掌のごとくして余の艸木一本もなく二三寸ばかりの芝笹微密と生て毛氈を敷きたるがごとし、左右の山岸(左側に五葉松、栂並生す、みな東西へのみ枝さしたり)より谷底まで同く笹原なり、その爽麗わざと造りたるかとうたがはれぬ、
(山頂から見た次郎笈)
平家の馬場にはその昔、謎の祭壇があったそうです。今は跡形もありません。
さて界正しく樹多く繁りたる山を越下りて枯木山といふに至る、此の所も又余の樹木なく、ただ枯木のみにて枝幹曝れて白し、一囲へ二囲への大木或は傾き倒などしてあり、幾百年に成ぬらんを炭のごとくに朽失せもせで立たるぞ、奇異ともいはんかたなし、木の下はことごとく三寸ばかりのくま笹なり。(三丁に五丁ばかり)
(御輿渡御)
又篠原を分け行く事十丁、行者野といふに至る、此の所老樹倒れ戓は斜に成りたる間を潜り行くなり、奇妙なるは樹の根又は横たはりたる枝をかぎりに小石を積上げて石塀となしたり、(か丶る深山にいづくより此の石を取来りけん、まことに人作に似たり、此の所も神の御あそび場と云、凡そ人此の内へ入ることをかたく禁むる事なりとの云伝へなるよし)
(八合目付近から頂上を望む)
剣山の名前の由来とされる「鶴石」、「亀石」が頂上付近にあります。
現在は二つの石がある付近は立入禁止になってます。(なぜ?)
此の間二丁ばかり、夫より人の丈よりも高き篠原をかき分け沿道を真下りに(日影一向にさ丶ぬ故なり)双手に篠竹を挙げて力艸として数十丁にして元の前神に帰り来る(凡そ此の何丁計と記したるは大抵の度量なり、嶮岨宛転たる山路なれば詳にしがたし)例祭六月十七日前神の原にて御輿を振るなり。
(お移り:御神体を神輿に移す)
剣山 夏の例祭は七月の第三日曜日に開催されるはず。
最近は神輿の担ぎ手が少なく、希望者は御輿を担がせてくれます。
担ぎ手は徳島県下の「講」と呼ばれる「氏子」集団が持ち回りで行っています。
参詣人是を舁奉る、其の御わたり撫養阿波井明神の御いさみに同じ様々に駆けめぐり周旋し、戓は石階を真逆様に下り直に馳登り、又は御社へ入り給はんとしてあと戻りす、殊に奇妙なるは時として圧がごとく重くなり、又揚るがごとく軽くなるは不思議なりと、此の神輿に仕りし人の話なり(又熊笹の刈株、岩稜など丶触れて足のいたみは覚ゆれど傷み損する事なし)
(お入り:御神体を社殿に返します)
此の前神までは女も参詣するなり、但し九月よりは男女共に此の所へ来る事一切ならず、八月末より三月まで雪あり、三月末に雪の深さ一尺ばかり。
或人前神へ行く道路にて俄に 向ひの谷より一声の風に連れて一朶の雲霧なびき出て 雷震するに逢ふ、大雨澎(ソソギ)て咫尺弁へがたく辛うじて十四五丁も嶮路を登りて雲烟の上に至るに、山上は晴朗にして渓谷のみ鳴動す。眼下の黒雲の中に団火七八堅横に飛び廻り 躍りはじくは豆を煎るさまのごとく夥し、
剣山頂上付近は悪天候がほとんど。もし登山した際に晴れ渡っていたら最高にラッキーです。
さて登山参詣して元の所へ下向するに、樹木いさ丶かも折れそこねたるを見ず、龍光寺に帰り来て此の雷鳴の説話すれば、当日のは殊に大に震動せしといふ、仍て墜ることなかりしやと問へば、老僧ありて答へ云、此の所に雷墜て物をやぶり砕く事なし、抑雷は深谷の鬱気の太陽に逢ふて雲となり登りて激く迸るなり、されど其の気の発動する間相近きに故音のみ烈しくして、いまだ物を撃て砕くほどの勢を成さず、其の気伸びて遠く麗に行き至りては、いよいよ凝りて盛になり、岩石をも破るなりと云へりとなむ、此の説深山の自然より出て好事家の参考に備ふべし。
又大剣のもとより(此の御社より一丁余下りて神水いさ丶か滴る、これ則ち大剣の厳より注ぎ出るなり、此の神水を汲て小さき竹筒に入れ、又は紙にひたしなどして頂戴して帰り、病人の憂所にぬり、あるひは彼の紙を符となし水にて飲ませるに霊験ありとなり)
(大剣の御神体(おしきみず)
(御神水の社)
(御神水の看板)
この「剣山御神水」は徳島一美味しい水。
カルシウム、ミネラルが多く含まれていて、なかなか腐らないそう。(試したことはない)
お茶やコーヒーに最適です。
祖谷の方に下るに、栂林の真暗く茂りたる中をゆく道殊に嶮し、数丁にして篠原に出づ、又数丁下り馬の背のやうなる坡の上を七八丁下つて少し窪き平に至る、爰にあやしの茅家三つあり。(これ六月御祭時に物売人の来る家なり、祖谷、一宇、穴吹谷等参詣道なればなり)
(古剣神社 昔の写真)
古剣神社の大岩の左手に◯◯◯が隠されているとかいないとか…
昔はトレジャーハンターが掘って掘って掘りまくったとのこと。
又登ること十丁ばかりにして山の峠に至る、これを塩無峠(シホナシ)といふ、五寸計の笹生て樹は少しもなし、晴やかにして右に一宇の山谷残なく見下し、左に谷を隔て丶深林あり、これ那賀郡仁宇谷の奥山鎗戸(ヤビト)の御林なり、後は剣山、前は此の塩無峠の峯筋を堺にして、南は祖谷、北は一宇なり、是より十二三丁も下りて丸笹が池(一名三畝の池)あり、峯嶺の四方よりかこみあひて池となる、其の中を塘のごとく山にてかれとこれを二つに隔てたり(山の形三畝となるゆへ名とす)
(二度見展望所から次郎ギュウを望む)
二度見展望所経由で頂上を目指せば、大剣の岩や「亀石」が見える(かも)
常な水満々として野鳧棲む、一宇の黒笠明神の峯も高く見へて深山の致景世に似ず、仙境はかくやあらんと覚しく、烈風時ともなく吹て笹も皆葉末枯て 長三五寸よりは伸びず、此の猛風一噫気(イキ)吹来る時は人をも谷へ吹落すべし。(此の所より祖谷菅生名へ行程一里半余、山路嶮し)
どうでしたか。
今回は文献から引用文が長かったので伝説系のお話は極力避けましたが、有名なところでは「聖櫃(アーク)の伝説」、「安徳天皇伝説(三種の神器(剣)を奉納した)」などがあります。
最後に耳寄りな話。
この剣山を起点にして祭祀されている阿波の式内社が存在します。
剣山から北に高越山「伊刺奈美神社」、「倭大国魂神社」が直線で配置されているのです。
そうです。阿波の神の根源はこの剣山から始まっていると言えるでしょう。
このような話は後々、一つのテーマとして個別に書いていこうと思っています。
長文を最後までご覧頂きありがとうございました。(^^)