建御名方神と沼河一族
(多祁御奈刀弥神社)
建御雷神が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると大国主のは次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州和(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。(Wikipedia)
さらっと進めましょう。(笑)
(多祁御奈刀弥神社境内にある力石はたぶんニセ〇ノ…(笑) 本物の「力石」は社殿の下に埋められています。名西郡誌に記載)
さて、多祁御奈刀弥神社は名西郡石井町浦庄諏訪(旧諏訪村)に鎮座しております。
そして建御名方神の崩御地と伝えています。多祁御奈刀弥神社 社伝記によると宝亀十年(七七九)に「信濃国諏訪郡南方刀美神社名神大は阿波国名方郡諏訪 諏訪大明神を移遷し奉る」とあり、今日有名な諏訪大社は「諏訪」の地名とともに阿波から勧請されたことがうかがえます。
これももう珍しくない話ですね。
これは私の予想ですが、建御雷神(タケミカズチ)に追い込まれた「建御名方神」は母親の「沼河一族」を頼ってこの地へ逃げきたのではないでしょうか。
「日本書紀」には登場せず、「古事記」の大国主神の神話の段に登場する。八千矛神(大国主神)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。「古事記」にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。「先代旧事本記」でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。(Wikipedia)
倭名抄にも高志(多加之)郷の記載があります。通説では高志(こし)と読ませ、越後(新潟県)に比定していますがこれは誤りなんですね。
(確認しにくいですが扁額に注目。天水沼間比古、天水塞比売の神名が記載されています)
せっかくなのでここだけの話…
関の大神宮は現在は跡形もなく、現在は確認することは出来ません。
(関の大神宮 跡地)
(関の八幡神社)
また、沼河比売の母親が地名にもなっている堰(関)比売。そして父親が沼河比古。
(鴨島町 敷島神社)
この沼河比売の両親を祀る神社が石井町の杉尾神社でしたが、今は敷島に祀られているのです。(今回の特ダネはここだけ。 笑)