えべっさん
(通町 事代主神社)
1月10日の本祭を中心に、1月9日の宵エビス、1月11日の残りエビスと3日間に渡って徳島市通町で行われる。
県内外から多くの観光客で賑わい、通町2丁目・3丁目を中心に両国本町商店街や国道438号(新町橋通り)沿い等に多くの露店が立ち並ぶ。
また阿波十郎兵衛座による人形浄瑠璃「えびす舞」や「七福神パレード」、植木市等のイベントもある。
明治初期まで事代主神社は八万村の夷山(現在の八万町夷山)にあったが、参詣客で大にぎわいのため、田畑が踏み荒らされ農民たちは迷惑していたので貧乏戎と呼んでいた。そこで明治5年に名東県大参事井上高格が当地に移転したといわれている。また同年38年に三丁目の大火で97戸が焼失している。蛭子神社はそのとき罹失したが、戦後再建され、「エベッサン」も再開されている。(Wikipedia)
(八万町 蛭子神社)
通町 事代主神社の由緒
通町のおえべっさんという、懐かしい呼び名で古くから徳島県全域の人々に親しまれ敬われている神社は、主神事代主神、大国主神をお祀りしております。
当神社は、元名東郡下八万村(現在の徳島市八万町夷山)蛭子山の円福寺に鎮座していたが、古老の伝えるところによれば、蛭子山城主、篠原佐吉兵衛の守護神なるを篠原家滅亡の後、家臣仁木太郎(清和源氏六代目)が蛭子山に勧請したと云われています。
明治二年に神仏両部祭廃止するの分離政令が下り、当時の官憲首脳者大参事井上高格が、通町繁栄の為当町に遷座勧請したという。その時、官命により事代主神社と社号を改称したとある。 自来、全県挙げて崇敬の的となり、特に商売繁昌、海上安全、大漁満足、良縁成就、五穀豊穣、また交通安全の守護神、諸祈願成就の神と仰がれ尊ばれています。
しかし明治三十八年十月二日午前二時 通町一帯の大火災の際、全町と共に社殿悉く灰燼に帰したるも、僅かに御尊体は焼失の難を免れ、当町有志一同の寄進により仮社殿が建築され、引き続いて毎年の祭事もことなくとりおこなわれていたが、その後、現地に社殿再建の計画がなされるも時節柄相当な困難を極めましたが、県民及び他府県崇敬者の的である「おえべっさん」は、広く崇敬者の御協力のお陰により、大正九年漸く現地に木造新築社殿の完成をみるに至ったのであります。
しかしながら、その後再び大東亜戦争で徳島市内繁華街が戦災にあい、昭和二十年七月三日全市全焼といううきめにあわれ本殿は勿論、社務所も焼失したが、当時、佐藤養助及び佐藤信博の両氏は大火の最中にもかかわらず献身奉護により幸いにして御尊体の焼失がまぬがれると云う誠に強運のご尊体であらせられ、益々県下並びに県外(高松市、高知市、淡路島方面)からの崇敬の念を捧げられているものであります。
かくして、終戦後は木造建築の社殿であったが、商売繁昌の守護神である当神社は崇敬者の誠意と温かい御協力のたまもので、ついに昭和四十二年十月三十日現地において鉄筋コンクリート建の新社殿が完成し、更に引き続いて昭和五十四年十一月、鉄筋二階(一部三階)の近代的な社務所も建設されたのであります。 このようにして、当社は今もなお引き続き幸運の守護神として全県民並びに他府県人にまで親しまれ尊ばれている「おえべっさん」であります。
それでは元社はどこなのか…
吉野川南岸の旧麻植郡を本拠地とする阿波忌部族と深い関係があった。阿波忌部族が粟を植えて拓いたとの故事を持つ粟島(善入寺島)には、かつて阿波忌部ゆかりの2社が祀られていた。一つは天日鷲命(あめのひわし)を祭神とする「浮島宮」、もう一社は「八条神社」で祭神「天津羽命(あまつはね)」は天日鷲命の兄妹神で、市場町の「事代主神社」の祭神「事代主神」の后とされ、またの名が「阿波咩(あわめ)」、「阿波波神(あわわがみ)」、「阿波神(あわのかみ)」であった。現在は、市場町八幡の「粟島神社」に合祀されているが、この事代主神は、天日鷲命と兄弟親族関係にあった。「八幡史」には、次の興味深い伝が見える。
「武布津神が出雲を平定して天照大神に奉告するために事代主神を道ずれにして阿波に来た。一行は讃岐の志度に上陸して、日開谷を過ぎて伊笠山付近に来た。その時忌部族は、高天原族等の不意の進入を咎めてこぜりあいがあったが、やがて忌部族長 天日鷲命は武布津のために、休憩所を今の香美(かがみ)に建てて、事代主神を自分の妹 阿波咩のやかたに迎えた。」(倭国創生と阿波忌部より)
この内容から一つ引っかかる神社があります。
由緒によれば「葛倉神」は大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が伊勢より大粟山に移られたときの伴神で創立は「神代」と伝わっています。
この「腰の宮神社(葛倉神社)」、八万町夷山の社(通町「事代主神社」の元社)の元社との説があるのです。
まぁ、だからどうしたと言われたらそれまでなんですが…(笑)