awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波に存在した「淡海の大津宮」

さて、突然ですが天智天皇が造営した淡海の大津宮とはどこにありますか?と質問するとしましょう。 

滋賀県大津市… 。」

と答える方がほとんどでしょう。通説ですからね。
その淡海の大津宮が阿波に存在するとしたら… 今回のテーマは「阿波に存在した天智天皇 淡海の大津宮」で進めたいと思います。

往古、古津上山(こずかみやま)•古津神浦と呼ばれ、阿波第一の名勝と称えられた古代の泊(とまり)が現在の鳴門市撫養町木津(きず)です。

木津上山の金比羅権現及び、その別当寺である長谷寺周辺が雄略天皇こと大泊瀬幼武(おおはつせわかたけのすめらみこと)の「長谷(はせ)の朝倉宮」及び、天智天皇の「淡海の大津宮」なのです。


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(木津 金比羅権現)

説明します。

まず「泊瀬」とは舟泊まりができる場所。
「後拾遺雑五」にて「阿波守に成りて又おなじ国にかへなりて、下りけるに、こづかみの浦と云ふ所に浪の立つを見て詠み侍りける(藤原基房)」とし、長元二年(一〇二九)基房が二度目の阿波守になったときに、「木津神の 浦に年経て よる浪も おなじ所に かへるなりけり」とあります。

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金比羅権現 拝殿内)

平安時代では吉野川上流から運ばれる淡水と紀伊水道から流れ込む海流によって、木津神の泊に浪が打ち寄せていた情景をうかがうことができたのですね。
また「泊瀬(はつせ)」は「長谷(はせ)」とも繋がります。

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(木津 金比羅権現の別当長谷寺

次は「淡海」で説明します。

そもそも通説とされる滋賀県の「大津」は平安遷都の際に「大津」の地名が誕生しています。よって天智天皇の時代には滋賀県(近江)に「大津」の地名は存在しおらず、現在の通説では不都合が生じてしまいます。

「山背を山城と改め新京を平安京と名付ける、また近江の古津を大津と称する」とあり、天智天皇が六六七年に、淡海の大津宮を拓いた当時、滋賀県大津は存在していませんから。
近江=「淡海」とされていますが、これは後世の解釈によって踏襲されているだけ。

本来、「淡海」とは「阿波海」のこと。


本居宣長も、「あふみ(淡海•近江)は「阿波宇美(あわうみ)が切(つづ)ま」ったものと説き、また記紀にみえる淡洲(あわのしま)、阿波国(あわのくに)、淡島•阿波島(あわしま)の用例や、淡路島の名の由来が阿波への道(阿波に至る途中の島)の意味で「阿波海」が「淡海」に表記されたと考えて間違いないでしょう。

例えば「万葉集(巻二ー 一五三)の大后の御歌では
鯨魚(いさな)取り 近江(淡海)の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る舟 辺(へ)付きて 漕ぎ来る舟 沖つ櫂(かい) いたくなはねそ 辺つ櫂 いたくなはねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ
ここで歌われている「いさな」とは鯨の古称。鯨が滋賀県大津に隣接する琵琶湖に生息しているのでしょうか。
ここの「近江(淡海)」とは紀伊水道の「淡海(阿波海)」なのです。

いかんいかん、、、「淡海」の説明で熱くなりました。
天智天皇 淡海の大津宮」とは「淡海には、鯨魚(いさな)を漁る舟が見え、時には沖の波が荒れ、多くの島々と湊(泊)があった古津神浦である鳴門市撫養町の木津金比羅宮なのであります。

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(全て長谷寺の境内にあるもの)

以前に紹介した鳴門市北灘に鎮座する葛城神社の隠された祭神天智天皇であるように、天智天皇は阿波の鳴門一帯を政治の拠点としていたのですね。

最後に「淡海の大津宮」は決して滋賀県大津市ではありませんよ。
今後、お間違いなきようお願いしますね。(笑)