awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

廣濱大明神(広濱神社、矢野古墳)

入田村大字矢野に、広濱大明神といふ社がある。又、そのあたりに、広濱名(ひろはまみょう)といふ田がある。
これは「日本後紀」弘仁二年の條に、「夏四月已丑、阿波國人百濟部濱等一百人𧶽姓百濟公。」とある。
百濟部広濱を祀った社であらうといはれてゐる。
これについて、七條清川は「實にさる事なるべし。また広濱名といふ田は、百濟部広濱のつくりし田なるか、又後に、其地を領せし人などが彼の社へ寄進せし田なりしにもあらむか。」と言つてゐる。

国府町矢野に鎮座する「広濱神社」でございます。

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社名を出されても、いまいちピンとこないかもしれませんね。
気延山の山裾、国府町 徳島市立考古学資料館近く「矢野古墳」の真後ろにある神社といえば知っている人もいるかもしれません。

広濱神社は百済部広浜」を祀る社


百済部とは白村江の戦い前に百済難民を受け入れていますから、朝鮮半島から渡ってきた一族でしょう。白村江の戦い - Wikipedia

ちょっと百済族の話は置きますね。

過去の投稿で気延山は200基以上の古墳がある霊山であると紹介しました。
広濱神社の真横にある矢野古墳もその一つ。

広濱神社のネタが少ないので矢野古墳の説明でもついでにしておきましょうか。(笑)

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矢野の古墳は気延山東端の標高24m地点につくられた直径約17.5mの円墳。(全長約11.5m、高さ2.8mの両袖式の横穴式石室)
石材には徳島県産の結晶片岩を使用し、棺をおさめる玄室の手前に前室という区画をもつ徳島県でも珍しい副室構造。
石室の奥の壁には2mを超える石材を使用して、天井は上に行くほど狭くなる持ち送り構造によって高さを確保しています。発掘調査の結果、須恵器・土師器・金環などが出土しています。世界大戦中は防空壕として活躍したとか。

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矢野古墳は6世紀後半につくられ、7世紀頃まで埋葬に使用されていたこと。

また石室の入り口付近からは平安時代の土器も出土しており祭祀などが行われていた形跡があり、矢野古墳は徳島を代表する終末期古墳として昭和28年、県の史跡に指定されました。


はい。矢野古墳の造成は6世紀後半と推定されています。
広濱神社は矢野古墳を多分に意識して造られているので、それを考えると矢野古墳には6世紀後半に朝鮮半島から渡ってきた百済族「百済部広濱」が埋葬されていたと考えてみてもいいのではないでしょうか。

その他に天石門別八倉比賣神社にも広濱について別の伝承も残されているので紹介しますと…

「当八倉比賣神大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大国主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され… 」
とあり、広濱神は伊魔離神と共に天照大神を迎えた阿波の国つ神とされています。

広濱神は阿波の国つ神… 

なんか他の神と比べると扱いに隔たりを感じるのは私だけでしょうか。
なんか日本人の外人目線に似ています。(差別意識ではなく、異文化での隔たり)

もしかしたら…
「広濱神」は伝承された時代背景が誤った状態で伝わっているだけで、神代の時代よりさらに後の大化改新前後の時代に生きた百済部広濱」であったかもしれません。

あぁ… ちょっと話の流れが強引過ぎるかなぁ…(笑)

でも「百済族広濱」。以外と要チェックかも。
国府町の西部から石井町全域にかけて一般的に渡来人と呼ばれる有力豪族の形跡が残されているからです。

今日はここまで。

ちなみに渡来人と言われる人たちは朝鮮半島の南部に渡っていた倭人。里帰りしただけ。この話はまたいずれ…