忌部の神宝(山崎 忌部神社)
后神に言筥女命(いいらめのみこと)。
また忌部氏の祖神である天太玉尊(あめのふとだまのみこと)。
天太玉尊の后神である比理能売命(ひりのめのみこと)。
衣織比女命(いおりひめのみこと)。
他に見えずわかりません。
忌部族の崇拝はもとより地方豪族や庶民の崇敬は大変厚く、これらの人々から寄進された神宝は多くありました。
しかし中古以来社地の壊滅と共に神々宝も散逸したり、埋没したりで残っていません。
それでは口碑で残されている今回のテーマである「忌部の神宝」を紹介します。
◉義経公奉納の剱
往古、源義経が忌部大神宮へ奉納したとされる剱。
忌部神社の社掌であった竹次郎が出国の際に氏子に預けた。その後紛失したとされる。
又一説には竹次郎上京の際に持参し伜主馬の代まで所持していたが、文政年中 京都古道具屋に見せたところ、古道具屋は伏見の宮へ献上し、金子を頂戴して、その後取り返せないでいるという。
この剱は鞘は白木を絹糸で巻き、詰め身の長さが一尺二寸(約36㌢)あり、嘉永二年(1848〜1854)にはこの剱を見た人もあったという。
◉忌部神社棟札
元文の頃(1736〜1741)、社地争論の結果当村忌部神社を早雲氏に引き渡す節に棟札は社掌より庄屋直右衛門方へ持ち帰り、居宅の二階に隠した。嘉永年間、旧社取調べの際に直右衛門 跡目 茂次右衛門が社掌に渡し、社掌が宮中に納めた。
◉玉
享保年間(1716〜1736)、早助と孫惣という二人が忌部神社の下の畠で玉を拾い、忌部神社に奉納してあったが、社掌の竹次郎出国後に、美馬郡曽江山赤谷の三宅権兵衛方へ、何者とも知れない者が質入れした。今もそこにあると言い伝えられる。
◉太刀
竹次郎出国上京の際に太刀は戸井家に預けて路用金を借り受けたそうで、今なお戸井快右衛門が所持していると明治三年の麻生家の覚書写しに記載されている。
かつて徳島忌部神社の宮司がこれを聞き、神宝にしようと金百円で譲ってくれるように頼んだが、戸井家では、我が村 忌部神社の神宝で麻生氏より預かったものであるので、どのような高価であろうと譲り渡すことはできない。若し山崎忌部神社復興の節は同社に返還したいとのことである。
◉瓊(赤い玉)
昔は数多くあったそうであるが、そのうち一個は種穂神社 神主 中川民部が持ち帰っておるといわれ、もう一個は美馬郡曽江山赤谷の三宅家が持っていると云われている。
◉神鏡
昔は七面あったと云われるが、その後紛失して行方不明であるといわれる。
(義経公奉納の剱と太刀の内容は同じ刀を指しているようです。長い年月の経過で内容が混同しているようです。)
この神宝の中でひとつだけ戻ってきた宝があります。
結末はこちら。
◉戻ってきた神宝
戸井家に保存されていた太刀は百年ぶりに山崎忌部神社に帰ってきた。
戸井家は藩政時代では山崎の庄屋を務めていた大地主であったが、その後事情により子孫は神戸に移住した。
戸井氏の子孫がある日、太刀が夢に出てきて忌部神社に帰りたいと訴えたそうで、神戸の生田神社に寄付した。
しかしどうも気になって山川町が引き取ってくれるように町役場に連絡し、役場より連絡を受けた忌部神社の総代会長、神社総代、神主などが神戸に引き取りに行った。
神刀は錆びが進んでいたので研ぎに出そうとしたが、県下では手に負えず、文化庁まで持参して文化財保護委員会の紹介で研師に研いでもらった。
二尺四寸(約72㌢)の白鞘入りの太刀は「光末」という銘が入っていて相当古いそうである。
鞘の表面には「義経奉納」や文治二年(1185)という年代も書かれている。
この年代や刀の銘から義経奉納というのはどうかと思われるが、戸井家にあった時は霊験あらたかで、狸に化かされた狸憑きは、戸井家の門をくぐり宝刀の霊力にあずかった。狸憑きはその宝刀を一閃すると狸はたちまち退散したといわれる。そんなことに相当使われたようで白鞘は黒光りをしている。
刀の結末は「麻植の伝説」より引用しました。その他、神宝のひとつである「神鏡」を実際に見た人のお話を伺う事ができました。
「青白く鈍く光り、圧倒される雰囲気があった」そうです。
そして「とても大きな鏡であった」とのこと。
もしかしたら神宝の「玉」なら、黒岩周辺を掘ったら出てくるかもしれませんね。
でも周囲はもの凄く重い雰囲気なので気をつけましょうね。バチが当たりますよ。(笑)
今回は阿波古代史ネタではなく伝説系で攻めてみました。
あぁ… 入力に疲れたよぉ…