日本武尊の本陵(白鳥神社)
石井町大字白鳥にあり日本武尊を祭る、三代寛録に貞観三年三月六日庚辰授従五位下、元慶七年十二月二日甲午授従五位上とあり、三好氏地二十貫を献じ區域七段余、本殿中殿前殿楼門等宏荘を極む、今鳥坂の北に宮田と呼べる地あり、蓋し其祭田なるべし古来葬埋を禁ぜりと。
上にありますように祭神はもちろん日本武尊。
そして、この白鳥神社一の鳥居の傍に両国一社の石碑があります。
勘のいい方のご想像通りに江戸期、讃岐と阿波のどちらが元宮か論議に発展したことがあったそうです。
讃岐の白鳥宮は瀬戸内海鎮守の目的として、阿波白鳥宮の真北に分祀された事実が残されていたようで、あっさり讃岐が引き下がったようですが。(やっぱり蜂須賀が持ってたんやね。資料を… )
さて、、、阿波の日本武尊を語るにおいて御子の話は避けて通れません。
日本武尊の御子達は真に不思議な死に方をしていますが、息長田別王だけが石井町海城(あまぎ)、現在の尼寺(あまじ)の主将として影響を残し、息長の一族が急激に勢力を伸ばしています。
息長とは帶族同様の海人族。
特に遠洋漁業の漁場、その航路をはるか古代から熟知し遠洋航海専門の海人でした。
明治期以後にも阿波の漁民と讃岐の津田町(難破邑)が遠洋漁業の礎となっていました。
また、讃岐の難破は我が国最初の貝ボタン製造地。古代より遥か南洋の漁場で貝を潜って収穫していたんですね。
話を本題に進めます。
息長田別命が初めて阿波君となり、代々子孫が君を継いできた場所が白鳥宮の東にある海城。
さらに昔、この二郡を名方郡と呼んでおり、その名方のいわれは息長田別命の名、ナガタからとったものと伝えられた経緯。
また、、、
阿波名方郡で大帶比古命の御子である大名方王(おおなのかたのきみ)が、この名方郡の王を名乗った。
という二つの血族の伝承から考えても、、、
石井町白鳥宮が日本武尊の本陵であるというのは間違いないでしょう。
(今回は名方郡の名の由来が建御名方神の名方という説はおいといてね。 笑)
ちなみにこの阿波白鳥 日本武尊の本陵、残念ながら盗掘されております。
物的証拠が残っていたらなぁー。惜しいなぁー。(笑)
こちらも追加情報があれば追加していきたいと思います。