awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

粟国の屯倉 春日免

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 麻植郡旧森山村役場の西南に「一町地」と呼ばれる場所があります。
土地の人の口碑によれば、麻植保司職 平康頼の葬場の地であるといわれています。
 
それが理由かどうか分かりませんが、昔からその地に居宅を建築すると凶事があるという伝承が残っているため、今に至るまで家屋の建築はしていないようです。
 
「一町地」の面積は一町四面余り。 (そのままやんw)
 
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また「阿波志」に「有其塋置小祠名一町地、往々穿地得古銭又有加須加美祠其主天津兒屋根尊在康頼廰址側相傳文治中康頼所置」とあり、此地は上古に皇室に貢献した米作りの地であったのではないかと伝えられている場所なんです。
 
以前から度々テーマにしている「屯倉」のことです。
 
また、此地一帯は「春日免」といって中央に春日神社が鎮座、天津兒屋根尊を祭ってあると書かれています。
 
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マップでは麻植神社と表示されるのに、現地で確認したら扁額も春日神社じゃないか。(笑)
 
「阿波風土記」には「阿波国は上古粟、長の両国に別たれ、長国の屯倉は那賀郡宮倉邑に設かれ、粟国の屯倉は麻植郡森藤村字春日免に設かれしにはあらざるしや、成務天皇の御宇粟長両国合して阿波国となりしならん」と書かれています。
 
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そして手束氏著「阿波史」には、「桓武天皇延暦十二年(793)の條に銭三十萬及長、阿波国稻各一千束を河内国交野郡百濟寺に施すとあり、延暦の頃までまだ粟、長両国在立せしならんと思われる。而して景行天皇より桓武天皇の頃まで、凡そ六百年間阿波春日免即ち森藤村一町地において作米せしを貢献なし来りしものと想像せらる。」とあります。
 
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鎌倉時代となり平康頼麻殖保司職となり来任し此地を保司廰としたから、中島村よりの入口を東門、飯尾村よりの入口を西門と呼ぶようになった。(麻植郡郷土誌より)
 
なんか「春日免」については最初から最後まで「平康頼」推しです。
それだけ伝承が残っていることは、当時にかなり慕われていた、または統治が出来ていたってことでしょう。
 
平康頼は置いといて、とりあえず粟の国の屯倉が鴨島町森藤の一町四面。
鴨島町森藤周辺に行くとわかりますが、田畑の真ん中に「春日神社」が鎮座してます。
本当に田畑のど真ん中にあるので役人が監視する場所の役割もあったんじゃないでしょうか。
やぐら跡とか発掘されたら面白いですね。
 
あと社殿がまんま納屋みたいに見えました。
まぁ機能的にはそうだったんでしょう。
 
ということで、実際に確認して「春日免」が「屯倉」であったということを納得して帰ってきました。
 
やっぱり文献だけではなく、現地に赴いて自分の目で確認することが大事です。
データだけでは頭でっかちになったり、違った方向に進んでしまうこともありますから。
 
とりあえず「屯倉シリーズ」はこれにて終了。(たぶん)
 

 

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