日本一社 弥都波能売神社の元社はこの祠だ⁈

加茂村 加茂明神の背に神通峯と云あり、十八丁登り龍王の滝といふあり、飛流十間余り滝壺自ら池なして径七八間計、青碧の淵となり溢れ流る傍に龍王の祠あり、早魃の時雨乞に百姓百人簑笠を着し鉦、太鼓を鳴らし此の汀を踊りめぐる、感応あれば神霊奇瑞を現はし其の長六七尺の鰻鱺脊上紫にしてひたいに金色の八文字あるもの水面に游ぎ出で踊りの人々にしたがひ蜿蜒と岸のほとりに逍遙すれば、忽ち山籟雲を喚び龍池霧昇り、暫時にして車軸をも流すべきほどの雨ふるなり、霊潤の多少は其の時によれど神霊を拝して降らずといふことなし。
「弥都波能売神社」
全国にさまざまな神社があれど「弥都波能売(みつはのめ)」という神名をそのまま冠した神社は阿波に一社のみ。
しかし「弥都波能売神社」が美馬郡内に存在したことはわかっているものの、社の特定まで出来ていないまま現在に至っております。
論社として脇町の「八大龍王神社」、美馬町の「八坂神社」等々がありますが決め手はないまま。
私は冒頭の文献の中にある「加茂村 加茂明神」が目に入った時に「三加茂町 鴨神社」周辺でヒントとなる滝が浮かんだのです。
その丹田古墳の後ろの淵に「龍王の祠(であるかもしれないもの)」を見つけたので、今回はそれを報告したいと思います。
当初は三野町にも「下加茂神社」が鎮座していますので、その北側 龍王山の渓にある「金剛の滝」「龍頭の滝」か?とも考えました。(近くに「瀧寺」があります)


瀧寺
丹田古墳を通過し、道をそのまま進みますと宝生山 福性寺の奥の院である加茂不動院につきあたります。(車は軽自動車しか入れません。大型車は丹田古墳前か300mほど先にある空いたスペースに駐車して歩きましょう)


加茂不動院。いい雰囲気です。
寺ですが、神社形式の建物で拝殿の奥に神殿があります。(ところどころに菊紋も目につきます)


加茂不動院右側へ進みます。
道は踏み固められているので、それに従って進みます。


鉄板で作った板橋(らしきもの)を渡ると左側に進みましょう。
目印は大岩の上にゆらぎ石が乗った磐座です。下に祠があります。(私は右側に進んで道を見失い、一時間ほど加茂山の中をさまよいました… )
磐座を通過すると雰囲気がガラと変わり、行場になります。
そして急勾配を踏ん張りながら登りますと、遠くに滝が見えてきます。

はい。「滝」に到着。
現在は加茂の「神通の滝」と呼ばれています。
しかし文献には「龍王の滝」と記載されています。
やっぱり三野町 下加茂神社や瀧寺近くの「龍頭の滝」(龍王の滝)かもしれません。(ブレブレですわ… 泣 )
ブレたままですが話は進めます。
滝は10mほど。
勢いは弱く岩を這いながら流れています。
そして滝の左側に注目!!
ありました。祠が。
私は文献の内容から、この祠が「弥都波能売神社」の元社ではないかと考えたのです。




参拝者もほとんど来ず、忘れられているんでしょう。屋根なんか朽ちて落ちてしまってます。
しかし祠の存在感は失われていません。
雰囲気がピリピリしてゾクゾクします。
私がなぜこの加茂山にある滝を選定したかというと、ふもとの鴨神社と祠の位置関係を模して三野町に下加茂神社を作ったと仮定したから。
(鴨神社と滝の祠を配置を意識して、吉野川を挟んだ位置に正反対に下加茂神社を作った)
そして祠が「龍王祠」または「貴布禰社」と呼ばれていたこと。
なんとも偶然。
この加茂山の南の麓には「貴布禰神社」が鎮座しているんです。


全国に上賀茂社、下鴨社は多くありますが、貴船神社までセットになって配されているのは珍しいそうです。(というか阿波の貴布禰社、鴨社、下加茂社が京都より先らしく、空海が持って行ったとか。あくまで噂ですが… )
真偽はともかく、この一帯の寺社の興りと信仰は古く、丹田古墳が造営される前からこの滝も古代から知られていた訳で、何らかの自然崇拝の信仰があったはずです。
あと、ここまで書いてなんなんですが下加茂神社の奥(瀧寺の奥)にある「金剛の滝」「龍頭の滝」の祠(未確認)が、冒頭の文献の中にある「貴布禰社」だったことも捨てきれません。
その場合、鴨神社と現在の貴布禰神社の配置と真逆の位置になります。
そうすると鴨神社と貴布禰社の位置関係を模して「下加茂神社」が造られていることになるんではないかと。
でも下社から先に造られることは考えられないんですよね…
と、まぁこのように立地条件が酷似しているので北(下加茂社: 龍王山)か、南(鴨社: 加茂山)かで、二通りの考え方ができてしまうんです。
私は南(加茂山の滝)で推しました。
(徳島在住の方以外は説明が分かりにくくて申し訳ないですが。文も下手で。)

さぁ、どっちが元社なんでしょうね… (笑)