高越山考 奥の院は伊邪那美命の神陵か?(高越神社、高越寺)
知らない人はいきなりのタイトルで驚いたかもしれませんね。
それでは高越山、山頂付近にある寺社について簡単に説明してみましょう。
高越寺
木綿麻(ゆうま)山三番地。山川町の西南、高越山(1122m)の山頂にあり。
高越神社
高越山は阿波では最も早く開けたと考えられる修験の霊山であり、一般に「おこうっあん」と親しまれている。
穴吹町の拝村、脇町の拝原などはいずれも高越山の遥拝所から出た地名らしく、阿波町の東林、西林もヒガシハイシ、ニシハイシと呼ばれていたものが後日現在のように文字が書き換えられたと「阿波国微古雑抄」にも書かれている。
さて、高越の名称であるが元永元年(1118年)に編まれた「高野大師御広伝」に「高越山寺」とあるのを初見とするが、山称、寺称ともにそれ以前からの呼称であるという。
山称の由来については四説あるらしく、
1.川田八幡神社の社家 早雲家の祖である早雲太夫高房が著したとされる「高越大権現鎮座次第」の宣化天皇三年戊午年(538年)早雲太夫高房を大将とする三八神がお供申し上げ、蔵王権現がこの山に御鎮座された際、「高き山へ越と云言葉により高越山と名付けたり」からの説。
2.吉田東吾氏著「大日本地名辞書」の「高越山は榖山の義にして、榖を加知(かち)又は加宇曽(かうそ)と訓む、忌部の祖が殖植せるは蓋此辺とす」という説。
3.「麻植郡誌」から「編者の考は寺が衆山に卓越した高處に建てられたから高越寺と命名され、其寺名から高越山の山名が出たものと断ずる」とある説。
4.「山川町史」から「和名類聚抄」の射立(いたち)郷付近に比定されるところから、射立の郷名は射楯(いたて)(兵主 ひょうず)神社が所在したことによる推定から「兵主より高越(こうつ)への転化が行われたとされる説。
現在ではこの四説の他に高越山の山称は「神山(かみつやま)」の転訛であり、「神山」を「こうやま」と訓じ神山=霊山の呼称であるとする説も出てきた。
(参考 徳島県出版文化協会 制作 高越山より)
このように昔から尊崇が深く、広く親しまれている高越山。
それは国生みの神である「伊邪那美命(いざなみ)」の神稜ではないかと考えられているからなんです。
まず奥の院 周辺を実際に見てください。
そして奥の院の下部には阿波の青石が敷かれ、石室の入り口が露出しているように見えます。
真偽の程は掘ってみないと何とも言えませんが、掘れば何かとんでもないものが、阿波の不思議。
経塚を掘って空海像作るくらいならこっちを先に掘って欲しかったかな…。