豊玉龍王宮の復活(豊玉龍王神社、国瑞彦神社)
まず豊玉龍王宮の祭神である「豊玉比賣」はご存知でしょうか。
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「豊玉比賣」とは「神武天皇」の直系の祖母にあたり、この比賣が存在しなければ現在の天皇家は存在しません。それほど日本史において重要な人物だったのです。
そして豊玉龍王宮は元々、徳島公園敷地内の城山に阿波藩 蜂須賀頭首自らが神官となって祭祀されていた小さな祠でした。
現在の城山は陸続きの山ですが、古代は周囲が海に囲まれた小島であり霊山でありました。
清玄坊の元祖は清和天皇で、皇子民籍降下にあたり天皇より「源氏」の称号を賜わり、後に修験者となり三好家と共に、阿波に移り城山に祈祷所を建てていた。
蜂須賀公が阿波に入国、築城に際し付近の全寺社に移転を命じたが、清玄坊だけは頑としてこれに応じない為、公は一計を編み換地を与えると言って城下に連れ出し、紙屋町を通行中後から弓で射て謀殺した。
途端に蜂須賀家には、変事が続出したので公は清玄坊の祟に違いないと、前非を悔いて石碑をたて、末代まで供養することを誓った所、此の変事はピタリと止ったという。
以来紙屋町の住民は毎年お祭を続けている。
清玄坊の長男範月は家政公と和睦をし、父の菩提を弔う為、刻んだ石地蔵が霊験あらたかで、現在掃溜地蔵として瑞巌寺に安置する。
次男右京院、三男左京院は難を逃れて、阿波郡の東西善地に落ち着き、祈祷の傍ら農業をしながら酒巻家として今日に至っている。
その子孫の五宝翁太郎は徳島県立聾唖学校の
創始者であり初代校長でもある。
又真珠湾攻撃で魚雷不発の為、九死に一生を得た特攻隊員の酒巻和男も此の子孫である。(清玄坊の由来書より)
この清玄坊が元々城山で祭祀していたのが「豊玉比賣」であり、後に供養した場所が城山南西に位置(現在は龍王の大楠の50m左側)する「豊玉龍王宮」であります。
清玄坊の祟りを鎮めるには清玄坊を祭祀し、清玄坊が祭祀していた「豊玉比賣」を復活させる必要がありました。
そして数百年のち、蜂須賀家が衰退、北海道に移住してからは祭祀を放置。
私は「きっと国端彦神社から近いから分祀させたんだな。」と勝手に解釈していたんですが…
新事実が。
徳島県民として、このように阿波の古代史に重要な神社の復活は本当に喜ばしいこと。
重要性を知りつつ、救済した宮司さんの働きかけも素晴らしいと思います。
ぜひこれからも活動を進めていって欲しいと思います。
阿波の古社を巡っている方。