awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波の伝説

ちはやふる… 三韓征伐の御神歌

十月に入りましたね。十月といえば阿波の南方において赫舟の行事が催される時期。今回は浅川港に伝承されていた舟歌をご紹介したいと思います。 浅川の天神社の祭事は旧十月十七日(神嘗祭)の日に行われていました。(現在は祭日も変わり、山車は南海地震の…

朝宮から大宮へ(名東の章)

えーと、、、前回の記事より続きとなります。前回は麻植の章として牛島八幡神社が「苧(麻:お)宮→大宮(おおみや)」へ転訛した伝承を紹介しました。 お気付きの方がいらっしゃるかも知れませんが、今回は微妙に題名を変えてます。これは麻植の章で書いた内…

麻宮から大宮へ(麻植の章)

吉野川市鴨島町牛島には天日鷲命を主祭神とする「牛島八幡神社」が祀られています。 当社は古い時代の創建で、神山町阿川の二宮八幡神社の大般若経 嘉慶二年(1388年)の奥書に牛島八幡と記されており、室町時代には既に存在していたと考えられます。また牛…

日知りと月読み(その参:今鞍進士と斎社の行方)

前回は「月読み」とは天体学などに長けたシャーマンの名称、美郷村月野に存在した「月読命の宮」こと「斎社」について述べました。今回は「斎社」のその後について自説を含めながら進めたいと思います。 今鞍氏が居住していた美郷村月野では「鎌倉屋敷」と称…

日知りと月読み(その弐:月野月読命の宮跡 斎社)

前回は日智子王神社から「日知り」についてでした。今回は「月読み」と「月読命」の相違点を中心に進めていきます。 阿波忌部氏を背景として種穂山や山崎忌部山などと関わりが深い美郷村。美郷村は昔から木屋平村、神山町、鴨島町、川島町方面の要路となって…

日知りと月読み(その壱:日智子王神社)

種穂忌部神社の摂社に「日智子(ひちこ)王神社」がございます。種穂山登山道にこんな看板があるのはご存知でしょうか。(登山道幅は狭いし車を駐車する場所も限られるので、よほどマニアな人でないとこちらの大神宮を参拝する人はいないのではないかと思い…

忌部伝承 二種の神器

ヤマト王権が確立してから宮廷祭祀を司った忌部氏と中臣氏。忌部氏は主に祭祀具の製造や調達、管理を行いながら宮殿の祈祷も中臣氏と共に担っていたのは皆さまもご存知の通りです。日本書紀には「中臣連の遠祖 天児屋命、忌部の遠祖 太玉命、相与に致其祈祷…

探せ‼︎ 剣山にある弘法大師が刻んだ法華経一字一石の塚

はい。今回はひっぱり過ぎが否めない剣山大権現縁起から。 (剣山大権現縁起の下書き) (全部は掲載しませんぜ。) 昔、安徳帝行在の砌陣営に用ひ給ひし事あり故に藤の池陣屋とも云ふなりと参詣者必ず此に宿す… と伝わる藤ノ池 龍光寺から一ノ森、剣山への…

霊験あらたかなる徹玄法師のお墓

どうも。あっという間にお盆も過ぎ去ってしまいました。阿波踊りは参加しましたか?ご先祖様のお墓参りはきちんと済ませましたか? ということで、今回はお墓参り繋がりから神山町上分に伝わる霊験あらたかな偉いお坊さんのお墓を紹介したいと思います。 些…

友内山は高千穂神山

友内大権現は旧郷社であり神饌幣帛料供社。創建年代不詳。友内山一名木綿麻山の頂上の近く、阿波忌部の祖神 天日鷲命を祀り古くから山岳信仰の対象とされてきた。中世には阿波守護小笠原氏や細川氏の崇敬社となり、藩政時代は友内大権現と称した。のちに友落…

☆★☆剣山山頂大祭だぜ★☆★

その昔は女人禁制の掟が固く守られていた剣山。錫杖や法螺貝を持つ先達に連れられた白衣の講組が六根清浄を唱えながら山崎から種野峠・燧峠を越えて二泊三日で登山していました。現在は穴吹・貞光からふもとまでのバスの便があり、夏季には貞光から見ノ越ま…

神領 粟国造の館考

大通寺正覚院ハ今上角名大通寺良藏院といふ院内一派の修験なり。一宮城主小笠原氏と縁を組し事今に此村に言伝あり。又小笠原氏隠居家なりといふ説もあり。 小笠原長宗が粟国造家の神録を強奪して一宮大宮司と称したことはこれまで拙ブログ記事でも紹介済み。…

国造家ノ将、鬼籠野ニテ死ス。其跡ニ庚申塚置キタル也。

暦應四年十月非道ニモ長宗兵力ヲ以粟國造家ヲ攻メ神録ヲ横領シ祭官職ヲ強奪セシ也。其證如何ト云ニ今神領村ノ隣村ナル鬼籠野村鬼籠野名ト云地ニ辻堂アリ。其傍ラニ周囲二丈許ノ杉大木アリ(其小祠ハ神佛混偖禁止ノ際ニ排除シテ其跡ニ庚申塚置) 里老口傳云此…

水軍 河野氏の里 「火山寺(樋山地)」と焼山寺

旧麻植郡 鴨島町樋山地は標高二五〇〜四〇〇㍍の高所に飛島のように忽然と開かれていた集落であります。多い時は約三十戸〜二百戸もあって栄えていたようですが、現在は廃集落となっています。(地主は時々来ているようです。) さて、この樋山地、このよう…

安徳帝は八岐大蛇の化身 矛立神社の蛇神とは?!

八百年もの昔、源平の合戦に敗れた平家の武将と安徳天皇。平家物語では最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)と共に壇ノ浦の急流に身を投じたとされています。そして安徳天皇が崩御したとされてから、以下のようなことが世間では噂さ…

俺の屍を越えて行け(もうひとつの庚午事変)

今回は番外編。明治三年に阿波国で勃発した内紛騒動 庚午事変にまつわるお話でございます。庚午事変については、日本法制史上で最後の切腹刑の処分が発せられたとして有名ですね。 (眉山 大滝山峯薬師横にある庚午事変の石碑) 日本全国が勤皇と佐幕の二派…

箸蔵寺に隠された「箸:はし」とは何なのか⁉︎

はい。今回は三好の箸蔵寺。讃岐金毘羅さんとは深い深い関係にあって古より奥之院とされております。(結構距離が離れているのにね。) ちなみにawa-otokoは大國主命と少彦名命が伊豫国の道後温泉への行幸途中に立ち寄った場所の一つが箸蔵寺だと考えていま…

三好長治自刃の地、今 長原と呼ばるるなり。

三好長治(みよし・ながはる)1553~1577 三好一族。三好義賢の子。十河存保の実兄。幼名は千鶴丸。通称は彦次郎。阿波守。阿波国勝瑞城主。母は阿波守護・細川持隆のもと側室で、大形殿とも小少将とも呼ばれた女性である。母母三好義賢と深い仲になり、天文…

劔の山 不動明王スサノヲ伝説

剣山の明神は、木屋平の龍光寺と祖谷の圓福寺両別當の相持ちにて社も大剣小剣の二に分れたり。村人は此神を安徳天皇の御剣なりと云傳ふれど、正しくは忌部神なるべし。さて此剣山の祭禮に山村の女子が白粉をよろほひて、其の上に紅を以つて額又頬に十の字を…

鈴ヶ峰に空海が祀ったのは本当に聖観音だったのか?

(聖観音像が見つかった岩屋) 阿波の南、海部郡宍喰町鈴ヶ峰円通寺の観音様伝説はご存知でしょうか。 慶安三年の頃、櫛川村(旧川西村大字櫛川、鈴ヶ峰北側ふもと)に五良兵衛という猟師がいた。毎日各所の山を駆け巡って獲物を狩る腕利きの猟師として名を…

木地師と修験者の聖地

一宇村の中心である古見から片川谷沿いに林道を進めば木地師の集落 木地屋に行き着く。海抜800から1000㍍の急斜面を耕す住民、その先祖は昔盆や椀の木器をつくる木地師であった。半田漆器の材料を製造していたが、大正時代の末に半田塗りがすがたを消すと和…

朧夜皇子が隠したもの

阿南市日開野町に鎮座する皇子神社は全県下に霊験あらたかなる神々の社として多くの修験者から厚く信仰されています。 創立年代は不詳。祭神は大己貴命。寛保神名帳には「日開野王子権現、別当石塚村正福寺」、阿波志に「王子祠日開野に在り」と見えます。資…

古代の女神達を鎮めた川除大明神と龍王

(字が見えにくい〜。) 川除けとは堤防のことである。川除大神宮は龍蔵堤の守り神として祀られたものである。西から流れ来た吉野川とその支流、新宮川(現在の神宮入江川)はこの付近ではほぼ直角に流路を転じ、北流していた。このため徳島城下を洪水から守…

灰燼に帰した童学寺(本尊以外の伝承物はどうなった!?)

2017年3月25日午後5時30分頃、庫裏(住居兼台所)が火元とみられる火災が発生した。本堂及び庫裏などの建物が全焼したが御本尊の木造薬師如来像は運び出されて無事だった。 (3/25 火災の様子) はい。火災の記憶が新しい童学寺でございます。あの火災からど…

神が去った阿波を統治した氏族

はい。Facebookのブログ投稿にてちょっとだけ告知したモザイク半分の謎の書。それは「阿波国古城諸将記」でございました。こちら元亀四年に記されたもので題名の通りに阿波の古城とそれを治めた城主を説明している書なんですね。 阿波国開主太玉命也 忌部主…

阿波で相伝される宇豆売の舞

鳴門の撫養(岡崎城)跡に鎮座する妙見神社に参拝した折、太々神楽を間近で見学することができました。今回は伝承を絡めながら紹介したいと思います。 まずは鳴門妙見神社のご紹介から。 撫養に没した室町幕府10代将軍 足利義植が妙見尊星を勧請し社殿を造営…

水都 徳島 : 渭水の役割

徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部に位置する。吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城である。渭山城・寺島城この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。…

いもじ村の天目一箇命は治水技術も伝承させたのか?

吉野川にかかる六条大橋北方の上流、高瀬潜水橋の近くに立派な神社が鎮座しています。天津彦根命の御子神、天麻宇羅命(あまつまうらのみこと)、天之麻比止都禰命(あまのまひとつねのみこと)とも呼ばれ、天照皇大神が岩戸に隠れたときに刀斧・刀物・鉄鈬…

新田大明神の居城 八つ石城址

阿波西部の山間奥地を開墾した者は地方豪族や源平合戦、南北朝争乱、応仁の乱等の落武者などであったと推察されています。 八つ石城はそれら山岳武士が立て籠もった城でありました。頂上の周囲を三段にきった横掘と攻撃軍が横に連絡できないように造られた縦…

御諸(ごしょ)の大墓宮と吹越大明神の謎

現存する處の一條五條七條の村名は、御所を設くるにつき京都の御所に倣ひて一條より七條まで定めし者の残れる傳なり。一條五條七條は大墓宮と傳ふ。 Facebookにて独り言として掲載した文ですが、実は続きがありました。「御所屋敷の南方にあり大墓宮は土御門…