awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

寒暖時候ニ背キ大地震ユル時ハ、必油断スヘカラス。

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さてと。浅川浦に鎮座する天神社でございます。以前御神歌を紹介した天神社ですね。 

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この天神社は大宰府に左遷される菅原道真を慰めるために建てられたという由緒だそう。天神社神社=菅原道真ではなく、本来は「天(津)神」を祭祀した社なんでしょうが… 久しぶりに難しいことを書いてもね…


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ということで、今回は当社に残っている南海大地震の記録、遺物について紹介したいと思います。

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南海地震(なんかいじしん)

南海地震は、紀伊半島紀伊水道沖から四国南方沖を震源域とする巨大地震の呼称。南海トラフ西側でプレート間の断層滑りが発生する低角逆断層型の地震と考えられている。

狭義の南海地震は1946年(昭和21年)に発生した昭和南地震を指す名称であるが、広義には安政南海地震や宝永地震南海トラフのほぼ全域が震源域)など南海道沖を震源域とする歴史地震も含まれ、さらに将来、南海トラフ西部で起きると想定される地震も含めて南海地震と総称される。また、南海大地震(なんかいだいじしん)や南海道地震(なんかいどうじしん)と呼称される場合もある。(Wikipediaより)

南海地震の最古の記録は日本書紀に記された684年の「白鳳南海地震」。日本の古代史を阿波国で解く研究者の一端は、この「白鳳南海地震」がきっかけで倭から大倭に遷都したのではないかとも考えられています。そして白鳳以降にも発生の都度に甚大な被害を引き起こした南海地震。一番新しいものでは昭和21年(一九四六)の南海地震が記録が残されており、古くは200年周期、近代には100年周期に近づき、昨今では30年間までに南海地震が発生する確率は80パーセントなのだそうです。

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684年11月26日(11月29日)(天武13年10月14日) 白鳳地震(天武地震) - M 8 1⁄4、死者多数。亥時(午後9時 - 11時頃)になって大地震があった。土佐で津波により大きな被害。伊予湯泉(道後温泉)は埋没して出なくなり、田園(約 12 km2)が海面下へ沈下。これは『日本書紀』の南海地震の最古の記録である。地質調査によれば、東海道沖の震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見される。

887年8月22日(8月26日)(仁和3年7月30日) 仁和地震 - M 8.0 - 8.5、五畿七道諸国、京都・摂津を中心に死者多数。津波あり。地質調査によれば、東海道沖の地震震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見される。

1361年7月26日(8月3日)(南朝:正平16年6月24日、北朝:康安元年6月24日) 正平地震(康安地震) - M 8 1⁄4 - 8.5、死者多数。摂津・阿波・土佐で津波により大きな被害。摂津四天王寺の金堂が転倒し圧死者が出た。津波で摂津・阿波・土佐に被害、特に阿波の雪(由岐)湊で流失1,700戸、流死60余。東海道沖の地震の発生は不明だが、同時期に東南海地震に相当する地震が発生したという説もある。東大地震研が調査した法隆寺の記録によると、淡路島の障壁にも関わらず、大阪市天王寺区でも海岸から4km以上に渡り津波が押し寄せたという。さらには伊勢神宮の古文書でも当時の記録が残されていることがわかっている。

宝永地震1707年10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震南海トラフ全域が震源域とされる) - M 8.6、五畿七道諸国、東海地方から九州東部の広い範囲が激震域となる。この地震の49日後に富士山が噴火し宝永山(火口)ができる(宝永大噴火)。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余。房総半島から九州まで大津波が襲来し、大坂、土佐の安政南海地震被害が甚大であり、青龍寺や久礼では標高25mの地点まで遡上した。道後温泉の湧出が145日間止まる。

1854年12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震 - M 8.4、死者千 - 3千人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高 11 m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が106日間止まる。時間差でこの32時間前に安政東海地震東海道沖の地震)が発生している。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で2,979回記録された(『真覚寺日記』)。

1946年(昭和21年)12月21日 昭和南地震 - M8.0、被害は中部以西の日本各地にわたり、死者1,330名、家屋全壊11,591戸、半壊23,487戸、流失1,451戸、焼失2,598戸。津波静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で 4 - 6 m に達した。室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸で 1.27 m、潮岬で 0.7 m 上昇、須崎・甲浦で約 1 m 沈下。高知付近で田園15km2が海面下に没した。道後温泉の湧出が38日間止まる。山口県美祢市(旧美祢郡別府村 (山口県)、共和村)では秋吉台麓の厚東川沿いの低地に「口径 1 - 11 m、深さ 1 - 5 m の堆積地ドリーネが150余発生した。この地震の2年前、1944年(昭和19年)12月7日には昭和東南海地震が発生している。

南海地震が単独で発生した確かな例は昭和地震および安政地震とされるが、震源域が全く等しいわけではない。康和地震も単独発生の可能性があるが南海地震としての典拠史料である土佐の記録の日付が誤記であるとの仮定の下の推定であり、その他南海地震と考えられていた白鳳地震、仁和地震、正平地震は連動型地震である可能性が唱えられている。明応地震については単独で起きたあるいは連動型であった等諸説ある。Wikipediaより)

それでは天神社本殿左にある慶応三年に建立された石碑から紹介しましょう。こちらは口伝による安政元年の南海地震の被害説明から子孫に今後来たる地震を警鐘するものです。

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干時安政元年寅年(一八五四)十一月四日辰刻(午前七時~九時頃)地震暫くゆり、巳刻比(午前九時~十一時頃)汐狂ひ往還へ溢れ人々驚山上へ荷物をはこび逃登りあわてあへり。夫より心をくはり其夜を明かす。翌五日晴天風雲なく日輪朧の如く暖なる事三月頃の如くなれは審敷思ひ山上へ荷物を持上るもあり、又は前日の変で事済しと思ひまちまちなる折から申ノ刻比(午後三時~五時頃)大地震暫有て終後大海より高さ三丈計の大汐さし込、其の早き事矢を射るが如し。浦上カラウト坂麓迄いせた戸や山の神関迄上り、其夜汐さし込事幾度ともしれす。天満宮、大年、御崎三社、並に浦三ヶ寺相残り、其余在家流失、村分西ノ奥、東谷人家悉流失なれ共、用心せし故村中怪我人なし、永正慶長に両度あり。又宝永四亥(一七〇七)十月四日稲観音堂石像地像に記あり。宝永度迄百年前後なれとも、こたびは百四十八年目なり、依テ後年寒暖時候に背き大地震ゆる時は必油断すへからす。後世心得のため是を建るもの也。

f:id:awa-otoko:20181014095226j:image昭和南地震被害の石碑)

南海大地震記念碑

21日午前4時19分に大地震、震後10分余りで津波が来襲、第1波の高さ約2.7m、第2波約3.6m、第3波約3.3mを記録した。死者85名、傷者80名、流家流失185戸、全壊161戸、半壊169戸に及んだ。その他、船舶漁具家財および農作物も多数流失した。終戦後の物資不足の時世に多方面から援助を受けたことへに感謝する。とある。

f:id:awa-otoko:20181014095233j:image津波到達最高潮位)
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f:id:awa-otoko:20181014095228j:image(境内右 安政南海地震の現代訳碑文)
f:id:awa-otoko:20181014095223j:image(慶長津波で破損した鳥居)

慶長地震(けいちょうじしん)は、江戸時代初期の慶長9年12月16日(1605年2月3日)に起こった地震である。震源については諸説があり、南海沖(南海トラフ)単独地震説と南海沖と房総沖の連動地震説、遠地地震説など。津波被害による溺死者は約5,000人(1万人という説もある)だが、地震による陸地の揺れが小さいのが特徴である。また震源や被害規模も不明な点が多い。

一応過去にもawa-otokoは南海地震津波を注意喚起しているのでよろしかったらお読み下され。

awa-otoko.hatenablog.com

最近、全国的に気候が普通ではないですよね。昔の人は南海地震が発生する予兆して異常気象を挙げて注意喚起しております。そして一番気持ちが悪いのは昨今の大きな地震は四国を避けていること。

もうそろそろスゴい地震が来るのでは…

最後に。昔の人は異常気象の他に以下のようなことも提唱しております。

「命のほかに宝はない。早く山へ逃げることが必要である。油断、あるいは欲に、何やかやと持ち逃げることを止めにしないと、万貫の金にも替え難い命を落とすことは儚いことである。百年ほど経てば大変なことがあるものであろうぞ。」

皆々様、くれぐれもお気をつけていただきますよう…