awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

タタリ谷の常厳寺跡 堅雄上人の痕跡

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加茂名村島田に本願寺あり。寺蔵する所の聖徳太子傳暦巻物は乾元二年二条天皇の御世の作製にして今を去る六百餘年前の逸品なり。元庄村法谷寺(峰の薬師)に存置しありしが、其後儈 賢雄(堅雄)の手によりて本寺の所蔵に歸し、今や國寳に編入せらるるに至れり。

f:id:awa-otoko:20180225095256j:image(島田にある本願寺

創立が江戸時代初期(伝)の本願寺において、なぜ乾元年間に作製されたという「紙本墨書聖徳太子伝暦2巻」が重文として伝わるのか… 明治期に書かれた記録にもあるように僧侶 堅雄による何らかの手引きがあったとされているのです。

f:id:awa-otoko:20180225100701j:image(堅雄上人の墓)

堅雄上人は救世山峯薬師: 法谷寺関連記事にも記したように峯薬師奥之院 タタリ谷常厳寺「聖徳太子の廟」を掘り起こし、神紋が彫り込まれた天井石を三宝荒神の碑にしてしまったり、寺宝である救世観音像、百済観音像を売却してしまったという良からぬ内容が伝わっています。

ただ今となっては真偽を確かめ術はなく…

awa-otoko.hatenablog.com

売却された寺宝のひとつが冒頭に記した本願寺に伝わる「聖徳太子傳暦巻物」であります。ただ、売却すればすぐに関係者が知ることになるような目と鼻の先の距離にある本願寺に移動させたことがawa-otokoはすごく引っかかりました。(本当に堅雄上人は私利私欲のために寺宝を売却したのか?)

机上の空論で考えていても結論はでませんので、いろいろ細かいところを現地で確認するべくタタリ谷常厳寺跡に行ってみたのでした。

 

f:id:awa-otoko:20180225182836j:imageすでに入り口から入りたくない雰囲気ですわ… (*_*)

f:id:awa-otoko:20180225105646j:image (°_°)

f:id:awa-otoko:20180225105700j:image参道は行けども行けども墓ばかり…

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寺跡までの参道はとても暗い雰囲気。陽が傾いたら入りたくない場所ですなー。(^◇^;)

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さて、跡地に到着して目に入ったのが上にも掲載している堅雄上人のお墓。

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堅雄上人の新しいお墓は粟飯原氏が建立しているみたいですね… 堅雄上人と粟飯原氏との関係性がとても気になります。

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次に堅雄上人墓前の石碑。通夜堂建立者 火(人?)宋 (宊?)…堅雄…とあり、どうやらこちらも堅雄上人の墓っぽいです。

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さらに堅雄上人の石碑から階段を登れば大きな石が目に入ってきます。これが聖徳太子廟の天井石であったとされる石です。石の表面にはたしかに神紋?らしき線や記号みたいなもが彫られています。その上から三宝荒神勧請之地と彫られているのも確認できますね。

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次に天井石を横から塀沿いに進みますとこちらも古墳に使用されていたと思われる三枚の板石で作られた門?が確認できます。これはこれで立派。くぐるときに落ちてこないかとても心配になりましたが、とてもイイバランスで設置されているようです。

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頭上を気にしながら門をくぐれば救世観音像、百済観音像の二体を永代供養したとされる石塔(随求塔)が立ちはだかります。下にあった堅雄の墓に刻まれていた内容では「随求塔 皆成就」とあり、この石塔を建立しての供養が成功したことが記されていました。書かれている内容ではどうも堅雄上人だけが推し進めていたような感じではなく、皆から求められて進めたような雰囲気が伝わってきました。(気のせいかも… )

f:id:awa-otoko:20180225102951j:image(随求大菩薩とありますね。(塔)デカいです。)

f:id:awa-otoko:20180225112059j:image(ここも粟飯原氏が… )f:id:awa-otoko:20180225103248j:image

そして石塔の背後には… 

f:id:awa-otoko:20180225103326j:image 胎蔵界

f:id:awa-otoko:20180225103343j:image 金剛界

二つの石曼荼羅が残されています。まるで二体の観音像の代わりのようにね…

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ということで、調べるところは調べて足早にその場を去りました。すごく雰囲気が… なので。ヾ(;´Д`●)ノぁゎゎ

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駆け足で下ります。途中で撮影ー。_| ̄|○ ハァハァf:id:awa-otoko:20180225112419j:image

入り口に下りてきても独特の雰囲気のままで、あぁ…って感じです。(*_*) =3=3=3

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入る前は気がつきませんでしたが、入り口にまるで随神のように粟飯原氏のお墓がありました。

口伝では聖徳太子の廟跡であったということですが、雰囲気からして聖人が祀られていた跡地という感じでなかったのがawa-otokoの受けた印象。後から作られたのでしょうが一般の墓が多過ぎます。聖徳太子ほどの人物が眠るのであれば、もう少し配慮されていてもいいのではないかというのが正直な感想です。

という訳で、現地では堅雄上人の功績が石碑として残されており、また、現地にお墓まで建立されています。この状況から当時堅雄上人は私利私欲を尽くした悪(ワル)だったのかを考えるとそうではないような気がしてます。(あくまでも個人的解釈から気がする。だぜ☆)

また途中でも写真を入れましたが、粟飯原氏がとても誠意を尽くして祭祀されていた形跡もあって、まだまだ調査が必要だと感じました。

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果たして寺宝はどう扱われたのか?真相は謎のままです。もう少し別の資料が出てくるまで待つものとしたいと思います。あー、疲れた。ではまた。ε-(´∀`; )