讃州白峯廟から持って来た崇徳院を祀る白人宮⁈
七十七代後白川院ノ朝保元ノ乱ニ新院ノ軍破レテ讃州ニ還サレ玉ヒ藤原頼長家司藤内左衛門範景入道シテ蓮心法師ト号讃州ニ来リ白峯ノ御墓ヲ拝シ草庵ヲ結御菩提ヲ弔フ処河野大領高遠ヨリ障ルノ義アツテ 阿波ヘ移リ当寺ニ寄宿シ三ヶ峯ノ神社ニ新院ノ御霊ヲ神ト仰キ祭ルノ所是亦讃州ニ近キノ故ニ禍ノ来タレル事ヲ恐レ麻植ノ宮内ニ至リ麻植為光ヲ頼ンテ此社地ニ新院ノ御霊ヲ白人宮ト称シ祭ルノ所鎮西八郎為朝モ伊豆ノ大嶋ヨリ遁レ来リ此白人宮ヲ拝シ永代ノ祭リヲ為光ニ頼ミ置予州へ立越エ三ツガ浜ヨリ九州ニ渡リ後ハ琉球国ニ至ルト云
はい。今回は冒頭から引用ぶっ込みました。
これまで穴吹の白人神社について、なぜ崇徳院、鎮西八郎為朝が祭神に含まれているのか、なぜ神宝も為朝所縁の武具であるのかなど謎が解明できないでいました。
本来、白人神社に祀られていたのは日本国の大魔縁となった崇徳上皇だったということ。
鎮西八郎為朝は崇徳院(白人宮)の永年祭祀を麻植為光に託すために身を隠しながら当地に赴いた。
大魔縁になる前の崇徳院は心優しい人物で知られていました。流された讃州では、自らが招いた保元の乱での戦過により亡くなった人々を憂い、仏教に昏倒したそうです。そのような人柄を慕ってか鎮西八郎為朝が伊豆大島より隠れながら白人宮に参拝に来たことが当宮の祭神に含まれたとされる理由なのでしょう。
(穴吹 白人神社)
崇徳院の崩御より京に還ることが許されなかった七百年という長い年月。崇徳院が放った「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん。」「この経を魔道に回向(えこう)す。」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になった崇徳院を死して日本の三大怨霊のひとつとして数えたほどであります。
このことから公に崇徳院を祀る宮ということは、白人宮開基当時から隠蔽されていた秘密であった可能性が高く(崇徳院の障りがあるとされた)、そのため鎮西八郎為朝は崇徳院を永代祭祀することを麻植為光に頼む代わりに、表向きには自らが源氏の英雄譚を利用して白人宮の祭神とされることをかって出たのではないでしょうか。
(讃岐白峯 崇徳院廟)
awa-otokoが白人神社参拝時に境内に漂う独特の緊張感を感じていた理由が今やっとしっくりきました。讃岐の白峯の崇徳院廟も参拝した折、感じた独特の緊張感は今思い出せばリンクするものがあります。
ちなみにかの有名な神明神社の五社三門の遺跡は白人宮創設以前から存在していたものでしょう。だって全然、讃岐の白峯と方向が違っているのですもの。鳥居の向きはね。(剣山を奥の院としている配置)
ただ、五つの祠の向きは讃岐白峯に向いているような… 最後にもうひとつの謎が残ります。それは白人宮は本来は木屋平に鎮座していたものが穴吹川の氾濫で移動したという伝承が残ることです。
だいぶ穴吹 白人神社開基の内容が明らかになってきましたがまだまだ突き詰められておらず、追加調査することになりそうです。続きは… 待たないでネ。(。-∀-)