神殺しの舞台は焼山寺なのか?
“1575年の5月18日のことである。宵にホウキ星(彗星)が見えた。それは日や月の光と同じような明るさだった。その夜は月は無く、北東の隅に見える大麻山から二艘の船が空を渡ってきて焼山寺山に到達して消えた。”
これは三好家成立記に記された三好長治の不吉を暗示した文でありますが、なぜかawa-otokoはこの文に引っかかりを感じるのです。以前から焼山寺に関して違和感を感じていた内容はこれ。(下記引用)
保食神と月夜見尊
日本書紀においては、同様の説話が神産みの第十一の一書に月夜見尊(月読命・つくよみ)と保食神(うけもち)の話として出てくる。天照大神はツクヨミに、葦原中国にいるウケモチという神を見てくるよう命じた。ツクヨミがウケモチの所へ行くと、ウケモチは、口から米飯、魚、毛皮の動物を出し、それらでツクヨミをもてなした。ツクヨミは汚らわしいと怒り、ウケモチを斬ってしまった。それを聞いたアマテラスは怒り、もうツクヨミとは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
アマテラスがウケモチの所に天熊人(あめのくまひと)を遣すと、ウケモチは死んでいた。保食神の亡骸の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。アメノクマヒトがこれらを全て持ち帰ると、アマテラスは喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。(Wikipediaより)
はい。有名な日本書紀に記された月夜見尊の神殺しですね。(古事記では須佐之男命)大宜都比売命を殺した内容です。焼山寺はこの説話に関係している場所ではないのかとawa-otokoは密かに調査をしていた次第であります。そこで冒頭の文言。記録された時代は中世ですが、ソースは遡って存在したのではないかと考えたのです。
でも、馬鹿正直に焼山寺で大宜都比売命は殺されたとは考えてないです。ちょうどこの付近は天日鷲命の領域である旧麻植郡と大宜都比売命の領域である神山の境界にあたることから、農業における進め方(考え方)で揉めたエリアであると考えるのです。
本来、焼山とあるように焼畑農業を主に採用していた(と思われる)大宜都比売命。
(蛇封じの岩)
空海が来山した折、大蛇が火を吹き山を焼いて山中の人々を困惑させていたので虚空蔵求聞持法で大蛇を岩に閉じ込めたというのは焼畑農業をしていた説話なのではないでしょうか。
焼畑農業(やきはたのうぎょう)/ 焼畑農法(やきはたのうほう)は、主として熱帯から温帯にかけての多雨地域で伝統的に行われている農業形態である。通常耕耘・施肥を行わず、1年から数年間耕作した後、数年以上の休閑期間をもうけ植生遷移を促す点が特徴である。英語では移動農耕 (shifting culitivation) という語が使われ、火入れをすることは必ずしも強調されない(実際、湿潤熱帯の各地では火入れを伴わない焼畑農耕も見られる)。英語圏の研究においては、短期の耕作と長期の休閑が繰り返され循環することをもって焼畑が定義されることが多い。(Wikipediaより)
そして月読命(月夜見尊: 天日鷲命)による天体運行による季節の移り変わりを測ることが必要だった農耕。
(龍王窟:またの名を求聞持窟)
空海が虚空蔵求聞持法を会得し、虚空蔵菩薩の真言を唱えているときに空から明星(金星)が近づいて口の中に飛び込むという体験は、天体運行の把握と気候の変化を体得した逸話なのではないでしょうか。
農耕(のうこう)
農耕や土器の発明により、人類は計画的に食物を生産、そして貯蔵することが可能となった。食料の安定供給は多くの人口を養う事を可能にし、それまで家族・親族単位であった人類の社会形態は大きく拡大し、多くの人々が定住して社会生活を営む様になる。世界四大文明などの古代都市文明も農耕を基礎におき、大河川流域で大いに発展した。そして政治と経済、ついには国家の誕生へと至る事となる。
さらに作物の管理や分配のための計算、気候の変化と農作業の日程を知るための暦法(天文学)、農地管理のための測量などが必要となり、これらが数学の基礎となった。(Wikipediaより)
大きな違いがあると思いませんか?どちらの農法を選択するか苦悩と葛藤の連続だったでしょう。
高越山(高越大権現)と大粟山(一宮大明神)の氏子が仲が悪かったのはこれを引きづっているからではないのか…
そのような太古の伝承が月夜見尊による大宜都比売命の神殺しの逸話としされているとしたら… そして空海もそれに一役かっているとしたら… 面白いですよね。
今回はちょっとしたawa-otokoの妄想でした。こんなこじつけのお話はまだまだいっぱいあるのでまた書きたいと思います。あ、冒頭の引用はあまり関係なかったのは指摘してはいけない… それでは。(≧∇≦)