awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

神領 粟国造の館考

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大通寺正覚院ハ今上角名大通寺良藏院といふ院内一派の修験なり。一宮城主小笠原氏と縁を組し事今に此村に言伝あり。又小笠原氏隠居家なりといふ説もあり。

小笠原長宗が粟国造家の神録を強奪して一宮大宮司と称したことはこれまで拙ブログ記事でも紹介済み。一宮(小笠原)長宗の子孫、弾正成直は神山町神領に隠居したことが記録されています。これは修験者の大通寺正覚院と縁を結んで国造家を相続したとされる内容とリンクするのであります。 

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一宮(小笠原)弾正成直の代から兄弟で城主と祭官と分かれたと記録されています。成直は隠居することで武家から離れ、城主の座には興味を示さない体面を取ったと考えてよいでしょう。その代わりに粟国造家が祭祀していた大宜都比売命の祭官を継承するという大きなミッションを遂行したのです。

f:id:awa-otoko:20170709230127j:image(大粟山より善覚寺を望む)

さて、大粟山の背後から巻くよう東に流れる上角川。大粟山の東の谷に祭官が着替える館が存在しました。それ故に装束谷の名称も残ります。その装束谷にあった祭官専用の館こそ「神領 粟国造の館」であり、のちの「大通寺」であったのです。小笠原長宗は武力により粟国造家の神録を奪い抑え込みましたが、神事の奥義までは奪うことは出来なかったのでしょう。粟国造家の流れをくむ大通寺正覚院という修験者に小笠原氏の娘を嫁がせて、ここで完全に神事と祭官の実権を掌握したのでした。

f:id:awa-otoko:20170709230809j:image(善覚寺)

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f:id:awa-otoko:20170709231140j:image(天保年間の銘)
この大通寺は大粟山東南の麓に在院していたとされ、(今も大通寺という地名が残っているとかいないとか… )小笠原家と粟国造家の縁組が整ってからは「一宮殿ノ跡屋敷(即チ神領ノ国造館ナリ)」とあり、一宮氏代々の位牌を祭祀していたそうです。しかし残念ながら天保年間に火災に遭い、屋敷は無くなったようです。

 

ここからはawa-otokoの推測。
現在の神領 八幡神社の境内、善覚寺の範囲は大通寺、または一宮殿ノ跡屋敷、即ち粟国造家の館の跡地ではないでしょうか。

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古文書に記録された位置にも合致しますし、何より八幡神社から上一宮大粟神社へ行う夜這いの神事は、粟国造家や一宮家が居住していた粟国造館から大宜都比売命の霊廟に通って祭祀する姿が夜這いとして表現されて現在に至ると考えます。その他、白桃名にあった大宜都比売命の伴神の社が八幡神社に合祀されているのも強い繋がりがあった理由からでしょうね。

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従って神官の居住跡に社を建てたのが、今の八幡神社なのではということです。大通寺、一宮殿跡屋敷などさまざまな名称が残りますが、総じて「粟国造家(大宜都比売命霊廟の神官)の館」が存在していた場所が当地です。

こちらの伝承は別に詳しく記された書物が存在するとのこと。(明治期には所在が明確であった。)現在は神山町内の蔵あたりに眠っているのではないでしょうか。さぁ、神領のIさん、Tさん、その他の粟国造家の末裔さん。家の蔵の中の古書を探してみましょう。すごいお宝が発見されるかも⁉︎ ですよ。(^ ^)