読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

水都 徳島 : 渭水の役割

阿波の伝説 神の坐す場所 古文書 平家 武将

f:id:awa-otoko:20170402180146j:image

f:id:awa-otoko:20170402180204j:image

徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部に位置する。吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城である。
渭山城・寺島城
この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けたとされ、または富田庄(のちの徳島)の地頭として来任した河野通純が1272年(文永9年)に築いたともされる。渭山の名についても、西から見た姿がイノシシに似るため猪山と呼んだという説もある。『城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される。
徳島城
戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年(天正10年)には土佐国長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。1585年(天正13年)、豊臣秀吉四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。(Wikipediaより)

概要を書くのが面倒だったので冒頭から引用文をコピペしましたw(でも、大事なので引用文はきちんと読んでネ!!)

f:id:awa-otoko:20170402180238j:image

f:id:awa-otoko:20170402180318j:image

さて、徳島市内で生活する方は皆んな知ってる徳島中央公園と城山。当地一帯は鎌倉時代に富田荘と呼ばれて桓武平氏を祖とする河野氏が支配していました。南北朝時代に入ると足利尊氏に仕えた細川頼之が治めて助任川と新町川の間の中洲上の小山であった当地に城を築きます。その後は細川氏の臣である森飛騨守高次が居城したと記録に残ります。

f:id:awa-otoko:20170401223649j:image(渭水見聞録をまとめた書だぜ☆)

f:id:awa-otoko:20170401223709j:image(この頁、中央より森飛騨守関係の文有り。)

f:id:awa-otoko:20170401223725j:image

はい。出てきました。まずは森飛騨守から。

 切幡城・秋月城を治めた粟国造粟凡直氏族の森氏(秋月氏)は、一時期ですが渭水城(徳島城)にも居城していました。冨田庄を統治した水軍河野氏、そして後に阿波水軍となる森氏は、戦国時代に阿波国を治めた細川家・三好家の舟師として活躍した海の豪族でした。

f:id:awa-otoko:20170402184837j:image

f:id:awa-otoko:20170402184930j:image

これらを考えても「渭水の城」は、徳島城を築城する以前から海に繋がる水路の要塞で海の豪族達の拠点だったことが明確で、「渭ノ山」に綿津見(海神)豊玉比賣命: 竜王祠が存在した理由はそこにあると考えています。 

猪山と呼ばれた城山本来の名とは「渭ノ山」でした。なぜなら「渭水」の流れこむ「渭ノ津」にある霊山だったからです。その内容を補強するものが、拙ブログに耳寄りなコメントを度々入れて戴いているEizo Iwasaさまの「渭水」についての情報発信でありました。

「渭水」とは本来、「鮎喰川」を指し、のちに徳島城下を流れる全ての川の総称となったのだそうです。下記に一部を引用させていただきます。

蜂須賀家政は、徳島の城下町を建設するに先立って、吉野川、鮎喰川、園瀬川の流路変更工事をした。鮎喰川は、本の名を「渭水」といって、かつては、この蓬庵堤を斜めに横切って、佐古川、田宮川、新町川、助任川、寺島川(徳島駅建設により消滅)につながって、直接、海にそそいでいたのである。「渭水」という名前をつけたのは、聖徳太子で、その人のお墓は、ここです、といって、タタリ谷常厳寺に案内された。(中略… )

おそらく、『阿波風土記』には、「鮎喰川、本名を渭水という」と書かれていたのだ。細川頼之も、風土記を読んで、渭水という言葉を使いはじめたのではないか?だけど、その出典を秘したので、細川頼之が命名したかのように誤解され、それが通説になってしまっているのですよ。『渭水聞見録』という徳島藩の史書がありますが、この本の著者、増田立軒も「渭水」とは徳島城下を流れるすべての川の総称であるという認識のもとに、その本のタイトルに「渭水」を使用していると思いますよ。(「ぐーたら気延日記」内「城山を大事にしよう」へのコメント再掲より一部抜粋)

このように佐那河内や神山まで八百万の神々が五穀の種を携えて遡上していた「渭水」の中洲である「渭津(いのつ)」。そこを拠点に選定した蜂須賀家政は、秀吉の許しを得て阿波国経営に乗り出します。

f:id:awa-otoko:20170402185710j:image

f:id:awa-otoko:20170402185731j:image

家政の築城工事は城山上の本丸、二の丸、三の丸辺りの工事を手始めに、本丸を備えた山城と御殿が並ぶ山麓の平城で構成された城を築城。

f:id:awa-otoko:20170402184421j:image

f:id:awa-otoko:20170402184436j:image

城郭と城下町の再構築では、北は吉野川、南は園瀬川を外郭とする大規模な城下町を形成しました。

f:id:awa-otoko:20170402184340j:image

この徳島城下の再構成によって「渭水」の流れは大きく変化します。蓬庵堤造成や、支流を堀として流用したことで古代から最大に機能していた一宮・神山地区へ水路も変化したと言えるのです。

と、いう訳で長々と書いてしまいましたのでまとめますと、、、

「渭水」とはもともと「鮎喰川」であったが、「渭山城: 玉島」なる古代からの海人族(森氏など)の拠点地周辺の支流にも用いられた。そして綿津見(海神)豊玉比賣命だけではなく、渭水を利用し、船戸の神としての猿田彦大神大麻彦命)を板野郡、那珂郡遷座し、祭祀を移動させていったのも古代の海人族の流れをくむ森氏によるものではなかったかということなのです。