awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

秋月氏は粟国造粟凡直の一族

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秋月村光勝院址の西方にあり。細川頼春の築く處にして季子詮春これに居る、後勝端に移るに及び秋月中務太夫居住せり。

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秋月城(あきづきじょう)は、室町時代阿波国阿波郡秋月庄(現在の徳島県阿波市土成町秋月)にあった日本の城。阿波市指定史跡とされている。建武の新政により小笠原氏(後の三好氏)に代って阿波国守護となって入国した細川和氏・頼春兄弟が、当地の土豪の秋月氏の受け入りにより築いた守護居館をもとに1336年築城された。管領となった頼之の弟で阿波細川家の祖となった詮春の代の1363年に守護居城は勝瑞城に移り、その後は秋月氏が居城した。天正7年(1579年)、長宗我部元親によって攻められ落城、廃城となった。(Wikipediaより)

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はい。秋月城址でございます。秋月城は秋月庄(荘)に入った細川和氏らにより造られたと考えられています。

秋月庄は本来粟国造粟凡直氏の流れをくむ秋月氏の居住地域であり、荘園開発の際にも秋月氏が領主であったとされています。(こちらは「熊野権現と阿波」で詳しく。) 

月氏は細川兄弟(和氏・頼春)が入ってくる際に居住場所を譲ったされています。功績があった細川和氏は足利尊氏の推挙によって建武の新政で阿波守に任ぜられました。同時に任ぜられた勲功の賞として秋月荘を尊氏から譲られたそうです。

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さて、現地に赴いてみますとやけに森本氏のお墓と石碑が目に入ってきます。細川氏が直轄した秋月の地に森本氏?初見の人は意味がわからなくなる部分ですね。

土成字秋月の森本家の先祖は、秋月3千貫の城主森飛騨守である。系図によれば元祖は源氏の新羅三郎である。室町時代、細川和氏が四国管領として秋月城に来てからは、その重臣として仕え、細川氏が勝瑞城に移ってからは、切幡城主であった森飛騨守が秋月城主も兼ねて、勝瑞城におもむいて忠勤に励んでいた。やがて三好氏の世となり、土佐の長宗我部氏の阿波攻略がはじまる天正7年(1579)、土佐方に服従した岩倉城主三好徳太郎の謀略にあって、矢野国枝、三好越後守、河村佐馬亮等と共に脇城外におびきよせられ、飛騨守は猪尻の竹やぶの中で殺害された。市場町八幡の八幡神社には、岩倉出陣の時の「旗懸松」という伝承がある。
その後、飛騨守の子伝八郎が長じて森本飛騨守を名乗り、弟の門左衛門が森門左衛門として蜂須賀に250石扶持で仕えた。現在、秋月城跡には古い五輪塔と共に飛騨守の業績を刻んだ石碑が建てられている。(阿波学会研究紀要: 森本義之尉氏談)

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はい。という訳で冒頭の引用文にある「秋月中務太夫」とは、森飛騨守のことを指していることがわかりましたね。(なぜ秋月氏と森氏と分けているのか理由はわかりません。)秋月城の西隣りの切幡城主の森飛騨守が細川氏が勝端に移動したあと、空いていた秋月城を支城として使用していたのです。。。


さていい感じで核心に迫る勢い進めましたが、このまま続けるとまだまだ補足が必要で長くなるので一旦終わりにしたいと思います。

最後に大事な内容を記載しておきますね。

・秋月氏は粟国造粟凡直一族であった。
・秋月氏から森飛騨守(森氏)を名乗ったのは粟国造粟凡直氏と小笠原源氏の融合がキッカケだった。(と思う。)

・森飛騨守(秋月氏)と同名別族 森志摩守(阿波水軍)は繋がりがあった?(と思う。たぶん同族!!)

阿波の歴史に詳しい人はちょっと気になる事が出てきたのではないでしょうか。。。

おっと長くなってはいけない=333 それではこのへんでさよなら。(=゚ω゚)ノ