awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

井内谷から祖谷へ(もう一つの平家落人と安徳天皇伝説)

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寿永四年二月二十一日讃岐八(屋)島の合戦にやぶれた門脇中納言次男 平国盛公は安徳天皇を守護した奉いながら三好郡の井内谷から祖谷山へ入山した。

国盛公、讃岐八(屋)島より落ち、志度にやどる、義経志度を犯す、国盛兵を引具して讃岐白鳥に引き移る、其れより水主庄に渡り、同所に月を経、同年同所を立ち、阿陽(阿波)大山を越え、金丸稲持庄井川を経て井内谷地福寺まで落ち来り、地福寺に暫く逗留し、極月下旬同所を辞し、大晦日祖谷大枝名へ入山…

井川町辻から井内谷川に沿った道を五㌖ほど遡れば、「馬岡新田神社」が鎮座しています。祭神は安徳天皇、平国盛、新田義治、埴安姫命でございます。

こちら「馬岡新田神社」こと「馬岡大明神」ですが、「馬岡大明神」とは安徳天皇であるという伝承が残されております。

 

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f:id:awa-otoko:20160804001513j:image(三好郡 馬岡新田神社)

馬岡新田神社

この神社は、延喜21年(921年)選進された延喜式の中に載せられたいわゆる式内社で「波尓移麻比祢神社」と称した。現在同神社に秘蔵されている室町神社の和鏡には側面に「波尓移麻比祢神社御神鏡」と釘彫りされ、室町時代という古い時代から波尓移麻比祢神社と呼ばれていたことがわかる。その後、祖谷へ落ちて来られた安徳天皇を合祠し(元暦年間)更に天正年間に新田義治を合祠し「波尓移麻神社馬岡新田大明神」と改称した。明治27年「馬岡新田神社」と改称し現在に至っている。武大神社と、八幡神社とあわせ三社の森と呼ばれている。 三社の森の中の馬岡新田神社の二本の杉は、周りが6mもある、銘木である。(社頭掲示板より)

 馬岡新田神社については、江戸時代の歴史書「阿波志」や「阿波史」も認めており、また後述の遺品などにより間違いないであろう。当時の社名は「波爾移麻比称(はにやまひめ)神社」と呼ばれ、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命・はにやすひめのみこと)を祭ったものである。
現在、馬岡新田神社に遺されている神官の先祖千日太夫の大永二年(一五二二)の記録に波爾移麻比称神社とある。また、神社の宝として伝えられる竜頭(りゅうず)に正治二年(一二〇〇)五月吉辰大工藤原高綱とあり、木鳥の背に「埴山姫神社」と彫られている。
また、明治四年に神社の庭から出土した室町時代の銅鏡の側面に「波爾移麻比称神社御神鏡」と釘彫りされている。これ等を総合して考えるとき馬岡新田神社は、千年以上も昔の百科事典『延喜式』に掲載され、以来ずっと信仰されて来た由緒ある神社ということがわかる。(徳島県神社庁公式HPより)

馬岡新田神社と波爾移麻比称神社については色々語りたい部分はあるのですが、今回は安徳天皇のテーマで進めるので別の機会に。。。

さて、馬岡新田神社の近くに地福寺という古い寺があり、地福寺では平国盛公をはじめとする落ちのびて来た平家落人達の傷の手当、討死した平家一門の供養を行った寺として古来より伝えられています。

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f:id:awa-otoko:20160804001621j:image(三好郡 地福寺)

証拠となる平家一門の位牌は現存していませんが、国盛公の父である教盛の位牌は残されているそうです。樅とも栂ともいわれる木で作られて、黒漆を塗り、朱で中納言教盛公位と書き記された教盛の位牌は、ご本尊大日如来坐像の左側に置かれて祭祀されているとのことです。

当時、地福寺の僧や住民から厚くもてなしを受けた国盛公一行は傷を癒し、先祖と一門の追悼供養を済ませたところで祖谷山入山を決意します。

井内谷を去るにあたり、安徳天皇は当地の人に自分の玉馬を下賜されたといいます。下賜された馬は、井内谷の住民にらよって大事に扱われていたようですが、間もなくして死亡してしまいます。

死亡した玉馬は手厚く葬られ、「中の宮(埴山姫神社:現在の馬岡新田神社)」に合祀された。このときより「中の宮」は「波尓移麻比祢神社馬岡大明神」と呼ぶようになった。と伝えられています。

元暦2年(1185)の屋島合戦に敗れて當地に落来た安徳天皇の御分霊を馬岡大明神と称して、波爾移麻比祢神社に合祀した上、南北朝期に當地八ツ石城に拠つたといふ新田義治公を奉祀し、新田神社として波爾移麻比祢神社に合祀するに到り、それより波爾移麻比祢神社馬岡新田大明神と称するに到つたという。「井内谷村誌より」

 

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どうも玉馬のくだりだけで名付けられたのではなさそうな「馬岡大明神」です。

 

安徳天皇井内谷の氏神として「馬岡大明神」として奉祀され、国盛公とその子孫が支配した祖谷 阿佐名の後裔は、全て井内谷 地福寺の檀家となっています。


また、奥祖谷の阿佐名、前祖谷の小祖谷名、いずれの氏神も「馬岡神社」であり、長い長い年月を経てなお、安徳天皇の祭祀は「馬岡大明神」として継続されているのであります

さて、祖谷にご入山あそばされた安徳天皇は、霊峰石立山(剣山)に「御剣」を奉納され、源氏の滅亡と天下平定を祈願しました。奉納された御剣は剣山円福寺安徳天皇の尊像と共にお祀りされ、多くの信者の崇敬のまとになっていました。

 

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f:id:awa-otoko:20160804001943j:image(日本最古の物とされる平家の軍旗:レプリカ)

f:id:awa-otoko:20160804002429j:image(平家落人後裔が所有していた備前長船 二振り)


しかし、後の時代に噂を聞きつけた賊が円福寺にしのびこみ、寺宝であった鎧や太刀などを盗ということがありました。以来、剣山円福寺の別院でもある地福寺にお移し申し上げられて細心の注意を払ってお守り申しているとのことです。
と、いう訳で、安徳天皇の御剣(草薙剣?)は静かに三好郡井内谷の地福寺に安置されている。ということであります。(御剣は未公開)

 

このように三好郡井内谷より祖谷山へ移動した平家落人と安徳天皇の伝説は現在も語り続けられております。以前にも紹介したように、神山町東宮山から木屋平へ移動した平家落人と安徳天皇伝説も残されています。

この二つの伝承から平国盛以下、平家落人は阿讃山脈を越えてから名西郡麻植郡、三好郡の広範囲に拡散して剣山を目指していたことが推測できます。そして情報の撹乱も行いながら移動したために、数カ所に渡って安徳天皇の伝説が残されていると考えます。(移動経路、目的地に到着した際の行動が用意周到なことから先遣隊を設け、また安徳天皇の替え玉も用意しての移動も推測できます。)

 



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f:id:awa-otoko:20160804055755j:image(東祖谷民族資料館)

 

最終的には剣山に到達して御剣の奉納と祈願は達成し、祖谷に安住の地を手に入れること叶いました。しかし安徳天皇が祖谷で崩御されたことが大きく予定を狂わせました。安徳天皇を擁護し、京に戻ることが不可能になったからです。
平国盛の後裔や一族の者は苗字を変えながらさらに南下、土佐方面に移動して土着します。それによって安徳天皇・平家落人伝説も伝承されることになったのでありました。

今回の内容はネタ的には派手さはないものの、後々の投稿から繋がって大きな意味が出てくるものだと考えています。いつになるかはわかりませんがそれまでお楽しみにしておいてくださいね。