awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

東宮山に頓宮したのは誰だ?

はい。いつものテーマには少し飽きてきたので今回は違うテーマで進めてみたいと思います。

個人的にとても気になっていた美馬郡麻植郡名西郡の移動の要所であった東宮山ですが、やっと登頂してきました。事前に古跡の位置も調べての現地調査だったので、伝承と現地の相違点、多少ですがわかった(ような気がする)ので、書いてみたいと思います。

 

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東宮城跡は名西郡神山町上分と美馬市木屋平の境にそびえる高さ1090㍍の東宮山にあります。東宮山はまわりの山と比べると際立って高く、谷は深く、四方を一望可能な自然の砦となる山なのです。

 

 

 

東宮城は元暦、文治の間(1184〜1189)、源氏との戦いに敗れた平家の残党が安徳天皇を擁して逃れ、一時滞在した「頓宮地(とんぐうち)」であり、「東宮(とうぐう)」の名は「頓宮(とんぐう)」より起ったと伝わります。 

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現在、東宮山頂上の少し下に東宮神社、春宮神社の二社が鎮座し、頂上にはその二社の奥之院が神山上分側、木屋平側に存在しています。

 

f:id:awa-otoko:20160724221154j:image東宮御所神社拝殿:名西郡神山祭祀)

 

f:id:awa-otoko:20160724221221j:image(春宮神社拝殿:旧麻植郡木屋平祭祀)

 

f:id:awa-otoko:20160724221516j:image (東宮山頂上 奥之院二社)

 

f:id:awa-otoko:20160724221555j:image東宮御所神社奥之院)

 

f:id:awa-otoko:20160724221620j:image(春宮神社奥之院)

 

宝暦四年(1754)に神山と木屋平両村に流血事件が発生した以来、別々に祭祀が行なわているとのこと。昔は春の例大祭が盛大に催され、各氏子、他の地域からも参拝があり賑わいをみせていましたが、現在はその面影もなく山の奥の寂れた神社となってしまっています。とても残念なことです。

f:id:awa-otoko:20160724222510j:image(200㍍続く馬場:宮の久保跡。かつての春の例大祭では屋台などが所狭しと並んで賑わいをみせていたと記録に残る。)

 

さて、伝説では安徳天皇一行は麻植郡美郷村別枝山の穴路坂より尾根伝いに東宮山に入り頓宮所を造営。さらに木屋平へ降りて剣山方面へと移動されたとされます。

東宮山には安徳天皇にまつわる古跡が伝承されております。その数は多く、具体的な位置までもが伝えられています。

個人的には平家の落人が逃避中に規模が大きい建物の数々、また、平家の残党として知られているのを前提し、美馬郡麻植郡名西郡の移動の要所付近で生活を営むことができたのはとても不自然であると感じました。

伝承の内容は安徳天皇達が陣営の場所として設けた場所より退去した後、その施設を利用した何者かの事と混同していると思うのです。

とりあえず伝承のもとが安徳天皇なのか他者なのかは置いといて、現在に伝承されている古跡を下記に挙げてみました。

 

・鞍掛石
東宮神社拝殿前の巨石で安徳天皇一行が逃れてきた時に、鞍を置いた遺跡。

・王屋敷
現在は「大屋敷」。二ヶ所存在し、ひとつは東宮神社拝殿より約1㎞東の地、もうひとつは府殿の釜ヶ谷の西北の高原にある。平家落人の屋敷があった場所。

・王泉
現在は「大泉」。東宮神社拝殿より西へ200㍍。東宮城が存在した時に御供えの水を汲んだ場所。

・鍛冶屋敷
府殿の釜ヶ谷の西北100㍍。王屋敷の隣。東宮城があった時にに武器を調達した場所。

・西門
東宮神社より西南180㍍。門跡であるが今は大きな石のみ。

・七屋敷
西門跡へ行く途中にある。東宮衛府の武士の屋敷跡。

首級塚
東宮神社の西550㍍地点にある。平家が落ちてきた際に、持っていた首級を埋めた場所。また、東宮城にいた平家が源氏の兵に襲われたとき、戦死した者の首級を埋めた場所とも。

・槍の久保
首級塚より西100㍍。かつて源氏軍来襲の時に槍袋をつくり防戦した場所。

・観音湯
東宮神社拝殿より西へ330㍍。東宮城があったとき、平家の武士の中のひとりが道場を構えて、戦没者の冥福を祈った場所。かつてこの場所より仏像が出土。下分の西光寺にて供養している。

・末利(まり)の久保
東宮城があったとき女官が鞠をして遊んだ、また平家の軍兵が退屈しのぎに蹴鞠の技を競った場所。「鞠」が「末利」になったと伝えられている。

・宮の久保
安徳天皇東宮山にいたときの大宮御所の遺跡。東宮神社拝殿より東に200㍍の場所。

 

首級塚などは平家落人伝承であろうと推測も可能なのですが、それなりの屋敷を造営してゆったりと居住する余裕も無かったはず。

私は東宮山の古跡の中は、土御門上皇御所経営と移動経路が含まれていると考えるのです。阿波での土御門上皇の移動経路は安徳天皇とリンクしているところが多々ある。(阿讃山脈付近から麻植郡山越えルートに限定して)

また、土御門上皇は土成町の御所から県南日和佐薬王寺に移動した伝承が残されています。しかし阿波の南方へ行く途中経路の伝承は一切耳にしたこともなく、文書として残されたものを確認したこともございません。

 

それでは早速、東宮神社・春宮神社から土御門上皇伝説に落とし込んでいきます。

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土御門天皇は、承久の乱敗北により、土佐、そして阿波に配流された。当時、土御門天皇は弟の順徳天皇に譲位して上皇となっていたが、実権は父の後鳥羽上皇が握っており、挙兵には関与していなかった。そのため、鎌倉幕府土御門上皇を処罰の対象と考えていなかったが、父帝が配流となったのに自分のみ京に留まるのは偲びないとして、自ら配流となり、承久3年(1221)10月、土佐に流された。貞応2年(1223)5月27日、幕府の配慮により、京に近い阿波に移された。阿波には9年間滞在。寛喜3年(1231)10月11日、阿波で崩御し、火葬された(阿波神社由緒)。遺骨は京へ奉遷され、西山金原法華堂に葬られた。嵯峨二尊院にも供養塔がある。 明治になり水無瀬神宮に合祀された。

阿波神社徳島県鳴門市。
土御門天皇火葬塚 池谷伝承地:徳島県鳴門市。皇室治定。丸山。
土御門天皇火葬塚 里浦伝承地:徳島県鳴門市。尼塚と呼ばれている。
・新野・御所神社:徳島県阿南市新野町。行宮があった。
・松木神社:徳島県板野郡板野町下庄栖養。栖養行在所(松木殿)跡にある。
南陽離宮跡:徳島県板野郡藍住町
・春宮神社:徳島県美馬市東宮山山頂。東宮山は行在所ともいう。上皇とともに皇子の後嵯峨天皇も祀る。
若宮神社徳島県阿波市吉野町柿原植松
・吉田行在所跡:徳島県阿波市土成町御所。御所神社があった(吉田椎ヶ丸の吹越神社に合祀、改名)。吉田御所屋敷
・阿波・御所神社:徳島県阿波市土成町吉田。元は吹越神社と言い、吉田行在所跡にあった御所神社を合祀して改名した。
・奥御所神社:徳島県阿波市土成町宮川内。上皇の終焉の地とされる。切腹したという御腹石がある。Wikipediaより)

 

●上記土御門上皇の古跡において謎解明のヒントになり得そうな部分

板野郡の土御門上皇の古跡の近くには一番札所霊山寺霊山寺奥ノ院 種蒔大師、大麻比古神社、宇志比古神社がある。しかも阿波神社以前に鎮座していた丸山神社は大麻比古神社へ移遷されている。また、土御門天皇火葬塚 池谷伝承地の被葬者は断定できていない。

土成町の上皇古跡についても、御所という地名はもともと安徳天皇と平家一党が仮御所を設営していた陣営である故の伝承もあり、安徳天皇土御門上皇の情報が交差している状態である。上皇終焉の地と伝承される腹切石で切腹したのは何ら関係のない者である。

 

という訳で先に進みますね。

まず神山側祭祀の東宮神社鳥居扁額には「東宮御所神社」とあります。

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東宮御所は皇太子の御在所を意味し、春宮神社の春宮も若宮の意味として同じで皇太子を意味します。

東宮/春宮とは
皇太子の居所,転じて皇太子の別称。五行説で東は春にあたるところから,春宮とも記す。東宮職員令によると,東宮すなわち皇太子の輔導にあたる傅・学士と,皇太子の家政機関たる春宮坊とを区別している。六国史等に見える実例もおおむねこの区別に従っており,皇太子その人をさす場合は東宮と書かれることが多い。《官職要解》によると,東宮は御座所を,春宮は官司をさし,もとは皇太子の別称ではなかったが,これを混用して皇太子を東宮,春宮と書いて〈とうぐう〉と読み,また春宮を訓で〈はるのみや〉と読んだものという。

 

木屋平祭祀 春宮神社の祭神は土御門天皇

土御門上皇後鳥羽上皇の皇子であり、後鳥羽上皇天皇の位を土御門に譲った後も強い院政を敷いたために土御門天皇は何時までも東宮(皇太子)のようだと評されていたということ。天皇としてではなく上皇としての名前の方がポピュラーである土御門上皇を祀る神社が東宮神社、春宮神社と称されるのはこれが理由であると考えます。

後鳥羽上皇鎌倉幕府打倒を計画した際に土御門天皇は反対。これにより後鳥羽上皇の怒りを買って土御門は天皇を退位させられ順徳天皇に譲位。
その後鎌倉幕府承久の乱を鎮圧。後鳥羽上皇隠岐順徳天皇を土佐に流配した。一件に関係が薄いと判断された土御門上皇に処分は無かったものの、自らの意思で阿波へ移動。そして阿波で崩御された。


土御門上皇が阿波に行かされる理由は特に見当たらず、土御門自身が阿波に赴く理由を持っていたのではないかと思うのです。阿波での土御門上皇所縁の地はいまいちピンときません。強いて言うならば、、、空海が開いていった阿波の古跡を辿っていたような部分が見受けられます。東宮山の南側には川井峠、西には天行山があり、空海が開いた天行窟は焼山寺本来の奥ノ院という)
東宮山が巡幸地であったならば、ほぼ間違いなく剣山が最終目的地であったことは確実。まず初めに土佐へ流れてから阿波に入国していたことになっていますが、剣山巡礼を終えてから土佐へ移動した可能性も… (剣山拝礼は歴史上有名な人物が多々行なっていますが表には出ていません。)

そして土御門上皇の最期、崩御についても明確になっておらず、もしかすると出家して、土成 薬王子大権現の御神体を日和佐に移動したのではないのか…

 

結論を書くと、安徳天皇については木屋平森遠から祖谷周辺で落ち着いたと考えます。一時的には東宮山を経由した可能性は限りなく高く、隠遁したことも考えられますが、それなりの屋敷を建て居住しできるような余裕はなく、安息の地にはならなかったと考えます。(途中の麻植郡名西郡を通過しようした一部の平家落人は、ことごとく追手に成敗されており、塚や板碑等が残されています。)

考証できる資料がないので断言はできませんが、安徳天皇率いる平家落人の移動経路、そして空海、他の歴史上人物(行基役行者など)からの情報をもとに阿波を拝礼行脚した土御門上皇の旧跡が含まれた伝承地、それが東宮山の伝説として今に残されているのかもしれませんね。

冒頭にも書いたように、美馬郡麻植郡名西郡の移動の要所である東宮山。阿波の歴史上重要な地点であることは間違いありません。道は悪いですが、RV車なら頂上付近行くことが可能なので気になる方は行ってみては如何でしょうか?

2年後には美郷の倉羅々峠、東宮山、川井峠を結ぶ舗装路が完成するとのことで、今から待ち遠しい限りです。