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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

田口成良の粋な計らい

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(源平屋島古戦場跡 那須与一が扇を射た岩)

 

阿佐家の先祖は門脇殿と呼ばれていた従二位中納言 平教盛の二男、従四位越後守 平国盛である。国盛は讃岐の屋島の浦(壇ノ浦)の戦いに敗れた後、阿波の祖谷に逃れて住んだ。
祖谷に逃れた平家に以下のような伝承が残されています。

三好郡山城谷粟山城主 田口(粟田)成良(阿波民部重能)は知盛始め諸武将と協議し、成良は源氏に降伏した風を装い、安徳天皇はじめ平家を一門が入水した如く見せかけ、同月二十八日成良自ら天皇を供奉して己が居城である山城谷に導き奉い、二カ月の間御滞在の後、剣山の麓(木屋平村、祖谷山村)に潜行した。

 

【田口成良についておさらい】

寿永2年(1183年)7月の平氏都落ち後、四国に戻って讃岐を制圧する。屋島での内裏造営を行い、四国の武士を取りまとめた。一ノ谷の戦い屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦うが、屋島の戦いの前後、源義経率いる源氏方に伯父・田口良連、弟・桜庭良遠が捕縛・襲撃され、志度合戦では嫡子・田内教能が義経に投降したという。『平家物語』によれば、教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたとされる。(Wikipediaより) 

田口成良が四国に戻ったのは平家が都落ちした後。屋島で内裏を造営して場を整えてから安徳天皇を招き入れています。この時に最悪の事態を想定し安徳天皇と平家一門を剣山際麓に逃がすストーリーも画策したのではないでしょうか。もちろん武家の人なので、源氏との真っ向勝負を挑むことは大前提で進めていたでしょうが、源義経の大進撃は想定外のものであったようで最悪の事態での計画を選択するに至ったと思われます。


記録では田口成良は源氏方に裏切ったとありますが、源氏に寝返ったところで冷遇される対応は目に見えており、自らの命が惜しい訳ではなかったと考えます。東大寺の焼き討ち、鹿ヶ谷の陰謀でも清盛のために尽力した田口成良が裏切ることは考え難く、これが安徳天皇一行を逃がす為の時間稼ぎであったとしたら… (私はそう信じたい。)

 

【逃がされた安徳天皇と国盛のその後】
祖谷に入った国盛は大枝名主の喜多氏を討ってその屋敷に立てこもり、付近の住民を帰服させながら勢力を伸ばしていったといいます。その後、国盛は杉を植え自らの鉾を埋めて平家再興を祈願しました。しかし、その祈願虚しく承元二年(1208)に京に上ることなく祖谷の地で亡くなったのであります。

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国盛には小次郎という嫡子ができ、小次郎は後に越後守氏盛と名乗りそのまま阿佐の庄に居住しました。

三代目は盛晴と名乗り同じく越後守を継承、四代目は家盛で紀伊守、五代目は盛辰で肥後守、六代目は盛鎮といい紀伊守、七代目は盛実で佐渡守であります。八代目は紀伊守を名乗り、天文年間(1532〜1554)に三加茂 金丸城の城主として三好筑前守之長に従っています。

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(金丸八幡神社の列石)

 

三好氏の隆盛に伴い、祖谷の盟主となり半田町や三加茂町の土地を拝領しました。祖谷の他の豪族と共に三好氏に従い、阿波や讃岐で転戦し、堺や京にまで攻め上がり、祖谷の軍団は阿波の軍勢の中でも強かったということであります。
初代国盛から三代目盛晴までは平家を名乗っていたが、四代目家盛の頃から阿波と土佐の国境に居住していたことにより、「阿(波)・(土)佐」氏「阿佐(あさ)氏」を姓とするようになったと伝わります。

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昨今、平家は剣山の麓で勢力を蓄えていた忌部氏を頼りに落ち延びていったという推測がなされています。この背景から考えて「阿佐(あさ)氏」は「麻(あさ)氏」ではなかったのかも推測してみましたが、これはちょっと当て付けただけなので考察するには厳しいかもしれません。(苦笑)


個人的には大粟山大宮司家でもあり、四国の大海賊であった一世一代の田口成良の粋な計らいによって、安徳天皇一行の御命を助け、自らの祖先が脈々と護ってきた皇祖発祥の地へ導いたのではなかったのでしょうか。

この田口成良の命を賭した導きにより、今もなお神山神領から木屋平村、祖谷山村の剣山系地域に平家の伝承が残されているのであります。

大粟山庄の祭官でもあった田口成良。亦の名を「粟田成良」と云う。のちに種野山を中心に国衙として栄えた阿波山岳武士は、剣山麓の祖谷、木屋平、旧麻植郡の強者揃いの衆であり、これらの衆(一族)は古代より大宜都比売命天日鷲命大麻比古神を祭祀した神々の末裔達。

大宜都比売命を祭祀した大宮司家 粟田成良の計らいから、種野山〜剣山周辺地域に土着した山岳武士達の協力を得られたのであります。ほんのひとときではありましたが、安徳天皇達は皇祖発祥の地を安住の地として得られたのはそのような背景があったからだと考えられないでしょうか。

 

【あとがき】

田口成良一族は、三好家の流れを汲む一宮長宗に滅ぼされるまで大宜都比売命を祭祀した祭官家として栄えたた一族でした。

昨今、粟飯原氏・大粟氏の古文書から埋もれていた歴史(阿波女社祖系)が表に出てきておりますが、一宮氏以前の田口(粟田)氏、それ以前の粟凡直一族に連なる歴史の流れが明確になっておりません。

今回、この状況を踏まえて田口成良に関連した歴史の断片をいろいろな観点から現在の歴史資料に結び付け、新たな発見のきっかけにならないかと実践してみました。もちろん解釈は人それぞれですから、また違う別の見解もあるかと思います。今は粟凡直一族の情報収集に行い、多くの考証資料を採取することが必要。今後も様々な側面から阿波の古代史に繋げて提唱していくと共に情報収集に重点を置いて進めたいと考えています。