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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

行基が刻んだ釈迦如来像

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「貝鐘の音、法の御声を聴くことも稀な辺土に置き奉る不徳なり、せめて寺院なりとも建立せん。」

 

源頼朝の妻、尼将軍こと政子は仏を信ずること厚く、正治三年(1201)三月 立派な寺院七棟を建立することを命じ、地方信仰の中心とした。 

 

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名西郡石井町浦庄大字下浦にある「下浦のお釈迦さん」で名高い釈迦堂は、「人皇四十五代聖武天皇の御宇天平十年戊寅、行基菩薩当地に於いて座像八尺の如来を刻み、行基聖武天皇の勅により、諸国に建立する国分寺の地を見定めるにあたり阿波を訪ねた時、感ずる所があり、浦庄の里に杖をとめて草庵をつくり村人に仏の道を説き、橋を作り村人の難儀を救いて八尺の釈迦像を残して去っていった。」(由来記より)

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釈迦堂、八幡外堀に長方形の敷地があった。そこは奈良朝期の伽藍である法泉寺跡であった金堂を中心に塔、鐘楼、経蔵をはじめとして多くの堂宇が建っていたと伝わる。金堂には釈迦如来像が安置されていたが、承平六年(936)藤原純友の浸入により焼失、仏像は他に移されていたが、冒頭にある北条政子の命より鎌倉期に佐々木氏が釈迦堂を再建した。

 

時は過ぎ、第百七代正親町天皇天正七年(1579)十一月十六日。四国統一を志した長宗我部元親の兵火にかかり、寺院堂塔は一瞬にして灰に帰した。
「由緒ある御仏体も共に焼け失いせ給いしか… 」と、里人が落胆する始末であったが、後に付近の池に敵が恐れて放棄していた御仏体が発見され、里人の手により仮堂が建てられ再び祀られた。

当時は国内戦乱の時代真っ最中であり、堂宇の再建もできず見るかげもない有様であったが、徳川の天下となり、三代家光の世になった元和九年(1623)にようやく再建し、その後しばしば修繕しながら現在に至る。明治三十五年に落成したのが今の釈迦堂である。

残念ながら現在、釈迦堂立地条件は悪く、区画整理のために作られた裏道(旧道)に追いやられてしまってます。さらに釈迦堂の記載虚しく、釈迦像の拝観することは叶わず!です。(説明だけされても実際に見んとわかりまへん。)

 

伝承の範囲ですが、創始者は行基菩薩。

別でも書きましたが行基が阿波で開基した仏閣は以下の通りです。

 

霊山寺:鳴門市大麻町坂東字塚鼻
極楽寺:鳴門市大麻町檜担ノ上
金泉寺:板野郡板野町大寺
国分寺:徳島市国府町矢野
・観音寺:徳島市国府町観音寺
井戸寺:徳島市国分町井戸
恩山寺:小松島市田野町恩山寺
立江寺:小松島市立江町若松
薬王寺:海部郡美波町奥河

 

位置や距離関係にとらわれず霊地のみを使用して開基したのであれば、件の釈迦堂は寺を建立するまでもなかったってことですか???

いやいや、田口氏や佐々木氏が治めた名方郡は意外にも時の権力者には優遇されています。冒頭の北条政子の言葉がそれを物語っております。

 

法泉寺跡、きっと掘れば良い物が出てきますよ。すぐ近くに石井廃寺跡もありますね。(笑)

あのねぇ… 釈迦堂周辺の写真をいっぱい撮影していたんですよ、、、 でもなかなかの雰囲気を放つ古い墓群、慰霊塔、祠があってヤバいなぁと思いながら撮影したらやっぱり写真データが保存されていませんでした。。。

だから今回はあっさりと終わります。深追いと強引な写真掲載は禁物。なのです。ふふふふふ…