awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

小杉榲邨は騙されたのか?(その弐)

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前回からの続きです。その壱を見ていない人はこちらからどうぞ。

さて、粟凡直の末裔は忌部大社即ち忌部大神宮の所在地と、これまでの背景を細かく記録しておりました。
 
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今の三好郡は美馬郡という。美馬郡・麻植郡は麻植一郡也。其の後、美馬郡を三好郡と改称し、麻植郡半分を美馬郡と改む。
神代以来、麻植は三郡(麻植、美馬、三好)の総称なりしことを知るべし。郡名を麻植と唱えるは神代、天日鷲命が麻を植え給いし由にて麻植と云う也。亦、郡中山分を総称「種野山」と云うは、麻種を蒔き給いしに由りて種野山と云う。種野山、今誤りて種穂山と伝わるべし。
高越山は木綿麻山(ゆうあさやま)と云い、麓の川は木綿麻川と云い、村名を楮田(かぞた)と云うが、今誤りて「川田(かわた)村」と云う由也。

驚きです。国衙領として知られる種野山は本来、種穂山周辺であったとの見解。また楮田が川田とか。川田付近は楮(こうぞ)の田であったということですね。
 
 
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高越山の忌部本社、種穂の社は神事執行発許の便に設け置きたる社の証しは両社諸事の関係にて知らるる也。高越山の奥の院と唱えて奥之権現と云う社ありされば、奥之・高越・種穂、三処にして基本一社なり。

こちらも深く考えるならば、奥之権現即ち「奥野々神社」とも考えられます。奥野々山の社から高越山、北麓の種穂山の範囲が忌部大社の社地であったと考えられるのではないでしょうか。
このラインを北上すれば何があるか?
 
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剣山ですね。

私は忌部大社と認識される前の拠点は剣山と考えています。はるか昔の神代ことでしょうが。
 
 
さて、ここからは忌部公事に関連する記録。
なぜ神領の一宮大明神氏子が詳しく知っているのかは謎。一宮大明神の氏子にも密かにリサーチが入ったのかもしれません。
 
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徳島藩聴の際、忌部神社捜索の為に官より大澤某氏出張あり。小杉榲邨始め、人傑数輩随行にて高越山へ登り同社の御神体を調査せしことあり。三重に閉じし包みたる箱にて開きみれば壹箇の木牌に櫛磐窓神、豊磐窓神とありたり。
大澤、小杉両氏も案外に思いし、祭神忌部神社に非すとせられし由也。人傑なる哉、あの神体を目的にするは至極の様なれども愚昧の神職数を襲さして祭神を忘失し、誤りて他神を唱え認むるは其類諸処に欺からず。
当社の調査為さんと欲する人は、最も大量なる心を以て少々の瑕節あるも、仮に祭神を誤りたるも其他の古伝と事實を調査に思慮する処は同事なるべし。されば当社を明瞭に和るべきは其れと定むる事勿論肝要なるべし。然るに神体の神名を見て其他、古伝、事實を深く捜索に及ばさりしは随分簡略な調査と云うべし。
氏地、広き大社は遠所の氏子等が祭祀の便に其処、彼処に移し変える社の多くあるもの也。各其の分祭の社に於いて本社の社号を用いる事勿論也。
 
長くて読む気がしないかもしれませんが、要約するに「小杉さんよぉ〜、ちょっと手を抜いて調査したんとちゃいまっか?」と言ってる訳ですね。
 
忌部大社歴代の神職も愚かであると説いております。神宝は長曾我部侵攻で略奪されているか、分社を渡り歩いていて忌部公事の際に略奪戦が繰り広げられていたことでしょう。 

 
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星移り、人代わり、其の根源を知る者罕なるに至りては、本社に勤む神職愚弱なれば、其の根源に迷い分祭の社に勤める奉仕の者、狡強なれば虚妄を冒して偽説を主張す。山崎、貞光、並其類也。(山崎村 日吉大明神も忌部神に坐すべし。けれども決めて分祭の社也。)野口年長、池辺真榛等、小杉榲邨、此の社に欺かれたるは笑止千万也。其の神社改正係の人傑連中、いずれも同断欺かれしと見えて忌部神社と改称して國弊中社に明治八年二月十二日、御祭典執行有りしも、美馬郡貞光村吉良名なる其の社に其の後御祭典替えに成りたり。伹し、吉良名 美馬郡なるに麻植郡の弐社と定められしは是れも決めて非ざる也。
御馬の故事を多く申し伝え、終わりに「駒死地」と云う処にて「御馬死」たりと云伝えなるにて知るべし。此の地に御魂所と云う処、二ヶあり。一つは后神なる由緒、織之岩屋と云う処、広々たる岩屋ありて神代に楮を織給いし処なりと云、尚、数々古伝ありしも全て美馬郡人は吉良名の社を以て忌部神、式内の社如く主張するも信じ難し。決めて分祭也。
惑わさるべからず。吉良名辺りは美馬と云う郡、名起元之地なる事は御馬の故事にて知るべし。麻植郡に非す。式内忌部神社坐すべき筈なし。
 
山崎、貞光、などの忌部大社立候補は偽説であると伝えてます。特に貞光の吉良なんか本来なら麻植郡じゃないやろーって言うてます。あたりまえ過ぎて思わず私もスルーしそうになりました。(笑)
 
皆、美馬郡の郡名の由来をご存知ないようなので再度記載しておきます。
 
天日鷲命に献上する御馬を育成させていた名馬を育成させた場所なので「御馬(美馬)」なのです。

一時的に領域として「麻植郡」として加えられていましたが、根源は「御馬(美馬)」みたいですね。名馬 池月伝説が名残りとして伝わっているようです。
 
 
偽説が様々な場所から飛び交っていたことで、何を基準に判断していいのかわからなくなっていたのだと思います。小杉榲邨も含めて…
 
いや、、、 、、
本当は小杉榲邨は師である池辺真榛に忌部の真実を知らされていた可能性は高く、そして阿波忌部氏の末裔である三木(みつぎ)氏、美郷の後藤田とは縁故の間柄であります。阿波国徴古雑抄をもまとめ上げた小杉榲邨ほどの人物が、また縁故の関係を含めて高越神社の御神体を収納した箱の中を確認し、木牌が「棟札(神札)」であることを認識できないことなどまずあり得ません。
 
 
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どうしても山崎村に忌部大社にしなければいけない理由があったのではないのか?氏子の虚言に騙されたのではなく、それよりも誰かが敷いたレールに繋げる手筈になっていた、または途中から仕方なくそうなった気がするのです。
 
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虚言に騙されたのではなく、騙されたふりをしていただけなような気がするのは私だけでしょうか。
 
とりあえず小杉榲邨の残した書類は抑えておけ。です。今後、何が出てくるかわからないからです。
 
今回のテーマの結論は「騙されたふりをした。」
 
師である池辺真榛の獄中不審死を体験しているだけに逆らえない「何か」に筋道を合わせたような気がしています。
阿波国風土記の紛失、光慶図書館の蜂須賀家書籍焼失、浮島八幡の撤去等含めて、様々な謎が発生しています。忌部公事の顛末も何かしらの意思により進められていたのかもしれませんね。