awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

小杉榲邨は騙されたのか?(その壱)

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知ってる人は偉業を知ってる。知らない人は全く知らない。(笑)まずは知らない人へ、小杉榲邨(こすぎすぎむら)という人物のご紹介。

徳島藩の陪臣の子として生まれる。通稱は五郎、號は杉園(さんえん)。藩校で漢學経史を學び、古典の研究に専念し、本居內遠の門人である池辺真榛に師事。安政元年(1854年)、江戸に出て、村田春野、小中村清矩と交わった。文久ころ、勤王論を唱えて幽閉された。明治2年(1869年)、藩から地誌の編集、典籍の講義を命じられた。
廃藩ののち、名東県に出任した。明治7年(1874年)、教部省に出仕し、明治10年(1877年)に文部省で修史館掌記として『古事類苑』の編集に従った。
明治15年(1882年)、東京大學古典講習科で國文を講じ、さらに文科大學講師、その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、國寶の調査に従事し、明治32年(1899年)、東京美術學校教授、御歌所參候を兼ねた。
明治34年(1901年)、文學博士。「徴古雑抄」の著がある。
明治40年(1907年)、『源氏物語』の寫本のひとつである大沢本を鑑定した(「鑑定筆記」)。
明治43年(1910年)、食道癌のため死去。(wikipediaより)

いやぃや、、、本当にすごい人物なんです。
ちょっとwikipediaの引用からは伝わりにくいですね。。。(汗)
分かりやすい野良根公ブルースさんのブログ「空と風」のリンクを貼らさせて頂きます。

小杉榲邨と『 阿波國風土記編輯雜纂 』

さて、このように阿波国から偉大な功績を残した小杉榲邨ですが、忌部神社社地をめぐって行われた争論「忌部公事」に巻き込まれることになってしまいます。「忌部公事」についても説明は長いですが目を通しておいてください。


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(種穂神社)
享保十二年(一七二七)、川田の多那保(種穂)権現の神職であった早雲民部が忌部神社を押領せんとし、山崎忌部神社神職 村雲勝太夫と論争した。その際には民部が裁判官にとり入り、勝太夫を寃罪に陥れて放逐した元文中(一七三六〜一七四一)に多那保権現を種穂忌部神社と改めて忌部神を祀ることになった。

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(山崎忌部神社
民部の子である式部(中川式部)は論争の再発をおそれて山崎忌部神社を焼き払ったことにより、天明四年(一七八四)より、山崎忌部神社の氏子は神職の更迭を願い出て、寛政十三年(一七九一)に受理されて式部は更迭された。
その後山崎忌部神社では神職を定めなかったが、文化十年(一八一三)に麻生家が神職に復活した。麻生家は村雲勝太夫の子である竹次郎麻生家が上京して中院家に仕えていた時に村雲家から麻生に改めた。その竹次郎の孫娘に養子を得て継いだのが麻生家ということである。

明治四年(一八七一)に忌部神社国幣中社に列せられたが、その所在は確実ではなく社格の宣下をすることがかなわないでいた。当時、名東県権中属兼大講義であった小杉榲邨はこれを考察し、忌部神社は山崎村に王子権現と並立して鎮座している天日鷲神社と決定し、この地に鎮座せられたいと建言した。
明治七年教部省から権大録 大沢清臣と権小録 清水重華の二人が実地検査のため派遣された。その結果両人は忌部神社所在検証二冊を作成し、教部大輔に復命した。この復命書からも小杉榲邨と同じ山崎村の天日鷲神社と確定したのである。
明治七年 太政大臣 三条實美は自今山崎村天日鷲神社を以て忌部神社と称し祭典を行うように教部省に通達し、祭典を行わせる旨発表せられた。

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(御所神社)
美馬郡西端山(貞光町)の村民は往古忌部郷が西端山付近まであったとか、忌部祠があったなどの理由でこれに反対、しばしば陳情し、内務省に勤務する折目栄氏の働きかけなどにより、遂に政府が認めるところとなり、明治十三年 小杉榲邨は偽証罪に問われた。
明治十四年の通告を以て、自今西端山村吉良名御所平を以て忌部社地と定められた。社殿落成までは当地の杉尾神社で祭典奉仕を執行することとせられた。
同年十一月式部寮より徳島県庁に御霊代を送付してきて、十二月に御奉納祭典が執行された。

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(富田忌部神社
山崎、端山の争論を避けるために、明治十八年忌部神社々地を更に徳島富田浦町に定める旨、太政大臣より通達があった。十二月酒井県令の通達を以て、社殿造営までは富田浦金比羅神社へ仮遷座をすることにした。明治二十五年四月社殿落成、五月遷座式が執行された。

忌部神社の所在地について、長い間争論・裁判が繰り返された。特に享保十二年より寛政十三年までの約六十年の紛争は、「忌部公事」と言われて有名で、事件の長引くものの例えとなった。他に西麻植の中内明神、川田の高越神社、宮の島(善入寺島)の浮島八幡神社牛島の大宮八幡神社、上浦の斎明神等に忌部神社とする口碑や伝説がある。(引用・抜粋:麻植の伝説より)
上記の引用が通説とされている内容です。
様々な場所が忌部神社の元社地とされてしまいます。現在も忌部神社の元社地はわからないままなので徳島市内の富田に鎮座しているのですね。(全然、麻植や天日鷲命と関係がない場所に!)

結局、時の政府も忌部社地をわからない状態で忌部の末裔達の利権争いの虚言に翻弄されたのでしょう。わからないのをいい事に麻植郡、はたまた名西郡の齋神社までもが忌部本社に名乗りを挙げる始末…。

はっきり面倒だから、全然関係ない場所に忌部神社遷座し、強引に争論を終結させようとした意図がミエミエの処置ですね。

小杉榲邨も山崎忌部神社と答えを決めて、調査に動いていた節もみうけられます。
どの時代を掻い摘んで「忌部神社」であると決めるのは難しいでしょう。特に山崎村の忌部山中には古墳も多く、黒岩の社地・雀嶽の存在もありますから当時からいちばん有力視された場所であると言えるでしょう。

でも、、、忌部神社の元社、即ち「忌部大神宮」の場所はいずれの候補地にも該当しません。
拙ブログを読んで頂いている方は「忌部大神宮」の場所を私がしつこい位に書いているのでご存知のことでしょうが。

さて、今回は長くなりますから「小杉榲邨」と「忌部公事」の背景と通説を説明までにしたいと思います。

次回は粟凡直の末裔に伝わっていた忌部の背景、そこから客観的にみた小杉榲邨を書きたいと思います。

どうぞお楽しみに。