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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

三千世界が波打ったころ

阿波の伝説 麻植郡 忌部氏 神の坐す場所

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今回は誰も知らない、本当にあったことさえもわからない忌部の民が活躍する前のお話。たまには記紀から少し距離を置いて考えてみてもいいかななど思いまして…

麻植郡の山塊や、傍らに流れる河川は太古の昔より大きな変化を伴いながら現在に至り、神代の昔、天日鷲命にその土壌の良さを見込まれて発展するまでの遠い遠い昔の伝承です。

 

太古の昔、神代よりも遥かに遠く遡った昔、四国にはまだ支配者はなく、阿波、土佐、伊予、讃岐などにも国が別れていなかった。
四国という名前もなく、ただ僅かな原始人達の小部族の集団的な自治社会が点在しているに過ぎなかった。人々は石器を使い、鳥やけものや魚をとり、木の実や柔らかい草を食べて生活していた。吉野川那賀川流域の広い平地には芦やかや原が広がり、いたるところに大小の沼や池があって、一たび大雨が降ると川の両岸は広大な遊水池と化すのでとても人間が住める所場ではなかった。人々は山すその段丘や山腹や谷あいに住み、太陽を昼の神とあがめ、月を夜の神と崇拝し、星を自らの生命の守護神と信じ、地震や雷雨を龍神の怒る仕業と考え、そして雨を神の恵みと感謝していた。
 
その頃、麻植郡川田川の上流に"江巳祇(えみし)"という若者が住んでいた。えみしは同じ部族の娘 "紀古音(きこね)"と恋人同士だったので、部族の長の許しを得て夫婦になることになっていた。ここの部族は二百人足らずの集団だったが、若い男女が結ばれると部族総動員で新しい住居を造ってくれる習わしがあった。えみしも適当な場所へ立て穴式茅ぶきの住居を造ってくれて、三月日が丸くなる夜にきこねを迎えることになっていた。
 
そうした或る日、急に天変地異の恐るべき自然の地殻変動が起きて、ぐらぐらと大地が揺れ動き、ごうごうと轟く凄まじい不気味な地鳴りと共に大地が裂け、或る地点は隆起して山となり、山は崩れて平地となり、平地ほ陥没して湖と化した。
大空は厚い雲が太陽を圧して暗黒となり、くる日くる日も大雨が続いた。人々は恐れおののいて、ただ神の怒りの鎮まるのを待つばかりだったが更に恐るべきことが起きた。大雨が降り続いている上に今度は大地から水が噴き出したのである。野も山も見渡すかぎりごうごうと音を立てて泥水が噴き出し、地上のすべてを大洪水の中に呑み込んでいった。
 
えみしは夢中できこねの住居に駆けつけ、今しも押し流されようとしているきこねの手をしっかりと握ると、泥水の流れ落ちる山を尾根づたいに登っていった。幸いなことに二人の登っていく山は頂の方だけ水が噴き出していなかった。やっと頂に辿り着いた二人は、お互いに無事だったことを喜びあったが親も兄弟も仲間達も、みな大洪水に流されて誰一人として生き残った者はなく、遠近の山々に住んでいた他の部族達も、全て大洪水に呑まれてしまった。
 
やがて地殻変動も鎮まり、洪水は去ったがまだ地表が泥沼でやわらかく二人は山を降りることが出来なかった。
幾日かが過ぎた日、その日はからりと晴れたよい天気だった。どこからか一羽の鶏が飛んできて二人のそばへ降り、更にふもとに飛んでいって大地へ降り立った。鶏は二人の居る山を見上げて鳴いて、大地が固まっていることを知らせた。二人は急いで山を下りて鶏の側へ行くと、鶏は頭の毛の中へ隠して持って来た一粒の麦の種を大地へ埋めた。その後二人は、鶏と共に仲良く暮らして一粒の麦の種を大切に育てて五穀の源を作り、自らは人間の種となって子を生み、孫をふやしてその数を大きく広げていった。
えみしときこねの生き残った山はいつか "たねのやま" と呼ばれるようになった
 
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(種穂山 のぞき岩からの展望)
 
麻植郡のきわ、種穂山から美郷村と山川町にまたがる種野山を舞台とした旧石器時代の物語だそうです。なぜか「木屋平の昔話」に「三千世界が波打ったころ」との題名で記録されております。
 
なぜ「木屋平の昔話」なのか… 
それは天日鷲神が麻を植え、統治した「麻植郡」の範囲内であるからでしょう。
 

 
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種穂山(たなぼやま)
 高越山の一文脈が西方に延び、吉野川に突き出している山を種穂山という。仁和2年(886)の吉野川の大洪水では岩津と四国山脈を分断し、承徳2年(1098)以後の河道の変遷によりこの山領は吉野川を北方におし出し、狭窄部河中160メートルの吉野川地溝帯における最狭地となって岩津の深渕をつくっている。
 
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種野山(たねのやま)
木屋平村から山川町、美郷村までの地域は種野山と呼ばれる国衙領(こくがりょう)であった。開発されたのは平安時代に遡ると見られ、租税を徴集するための行政単位として編成したとされる。種野山には、古代の阿波忌部の流れを引く木屋平の三木氏や松家氏がいた。彼等は祖谷山の菅生氏、落合氏などとともに南北朝の時代には阿波山岳武士とも称され、北朝方に屈せずよく戦ったとされる。松家家には、南朝方の山伏によってもたらされたという、「もとどりの綸旨(りんじ)」が残っており、三木家は天皇即位の大嘗祭に、必ずあらたえの布を献上する役割を担っている。これらのことから阿波が中央の権力と何か深い関わりのあったことを推察されている。
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高越山
山川町の南西部にそびえる標高1133メートルの高越山は本町最高の山であり、連峯を従えて中空にかすみ、親しみと威厳を持ったその容姿はまさに阿波の名山としての風格を備えている。
東側は川田川で、そして西側は穴吹川でけずられたその山塊は東西に連なる山地より数百メートル高くそびえ、吉野川中流域の名山とたたえられ、特に北方よりの眺めは秀麗である。その頂上附近の南側には真横になったものすごいしゅう曲が見られ、これが附近の山々に比べて高越山を高くさせたものであることがわかる。また山の所々に蛇紋岩や角せんがんの露出があり、含銅硫化鉄鉱のある銅山も地殻の大変動による断層や亀裂に沿うて、内部から現われ出たものである。この一つの高越山にも永い年月にわたる変転の跡がきざみこまれている。(山川町の文化財 高越山より)
 
太古の昔に高越山を中心とした忌部郷周辺で大きな地殻変動が発生していたのは本当のお話。
"江巳祇(えみし)" と "紀古音(きこね)" の伝承は今となっては確かめることさえ出来ませんが、大宜都比売命を始め天日鷲命大麻比古命の三柱による粟国経営の伝承がこの時期、表にでてきたことは何か意味があることではないのかと考えています。
天日鷲命が統率した忌部の民が活動した麻植郡は阿波の国の遍歴を知るには避けて通れない重要なエリアです。今後も記紀だけではなく、様々な伝承を掘り下げて考えてみたいと思います。