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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

天智天皇はフェイク!? 葛木男神の影…

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(阿州北灘葛城大明神縁起)
 
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謹みて按ずるに天智天皇葛城皇子と申し、又、中大兄皇子とも申し奉りしなれば葛城大明神と號し奉ること其故あるべし
 

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昔々、天智天皇が讃岐國八島(屋島)へ御幸の御時、粟田村に御船がかかり、とある池の鮒を釣りしようとされて、御馬に召されて御船から上らせられた時、御馬の足に藤の蔓が纏って、もったいなくも御落馬遊ばした。その御落馬の拍子に、男竹で御目を突きさされ、大層なお痛みなされた。
それからといふもの、此村では馬も飼わない、池溝に鮒も住まなくなった。そればかりではない。男竹といふ男竹は、一本も生えなくなってしまった。
葛城大明神は天智天皇をお祭りしてあるので、此葛城大明神の産土神である鳥ヶ丸、宿毛谷、大浦の三箇村も同じように、馬を飼わなければ、鮒も住まず、男竹も生えないといふことである。眼病の人がこの葛城大明神に、其御平癒を祈願すれば、験應があるといふので詣でる者が多い。

 

 

 

さて、板野郡の鳴門北灘に鎮座す葛城大明神は天智天皇を祀っていると伝わります。
過去記事にもちょこちょこ小出ししていたのですが、これまでの調査から気になっていた内容を織り交ぜながら書いてみたいと思います。
 
 
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天智天皇(てんちてんのう / てんじてんのう、推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は第38代天皇(在位:天智天皇7年1月3日(668年2月20日) - 10年12月3日(672年1月7日))。和風諡號は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に與えられた皇位継承資格を示す稱號で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡號である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡號と同様に、奈良時代淡海三船が「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けたと言われる。(Wikipediaより)
 
はい。まずは天智天皇の情報を。
冒頭で示したように過去には天智天皇を祀るという伝承があるのに、なぜか現在の御祭神は葛城一言主神(言離神)となっております。
そして北灘 葛城神社は大倭(奈良県)御所市に鎮座する葛城神社の分社であるとのことです。(大笑)
 
私自身は阿波国天智天皇は存在したと考えたいです。何故なら、同じ板野郡の西山麓には忠臣である中臣鎌子(那賀の登美の鎌子)一族が存在し、木津上山に鎮座する金毘羅神社及び別当寺の長谷寺は淡海の大津宮跡との伝承、阿波風土記逸文に記載された木津上浦の存在、阿波に残された蘇我氏の存在、etcと痕跡があるからです…
 

 
まぁ、皆さんが皆同じ結論であるとは思っていないので、あくまで個人的な戯言として読んで頂ければと思います。
仮に天智天皇が阿波に居たとして考えれば葛城大明神とは天智天皇の亦の名「葛城皇子」から取られて祭祀されたと考えるのは容易なのですが、一つ厄介な存在が残るのです。
 
「葛城一言主神」の存在です。
 
上記に提示した伝承とほぼ同じ内容で「葛城一言主神」が含まれた伝承も残っています。
 
第39代天智天皇が九州に船で巡幸される時に一言主もご一緒し、途中で粟田(葛城神社がある場所)の浜に立ち寄り、しばらく滞在された。ある時、天智天皇と共に釣りをしに浜へ向かう途中に乗っていた馬がつまずき、一言主神は馬から落ちてしまった。さらに竹の切り株に目をぶつけてしまい、このことが原因で目を患われた一言主神は養生のため、ひとり粟田に残ることになった。ある日、井戸水で目を洗ったところ、眼病が治りこれに喜んだ一言主神は、眼病で苦しんだことを忘れず、特に目の病で苦しんでいる人たちのために、北灘葛城神社の祭神として加護することを誓われたのである。
 
◼︎葛城一言主神の変化
葛城一言主神は「古事記」(712年)の下つ巻に登場するのが初出である。460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を著た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの著ている衣服を脫がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。
少し後の720年に書かれた『日本書紀』では、雄略天皇一言主神に出會う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっている。時代が下がって797年に書かれた『続日本紀』の巻25では、高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を爭ったため、天皇の怒りに觸れて土佐國に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。(ただし、高鴨神は、現在高鴨神社に祀られている迦毛大御神こと味耜高彥根神であるとする説もある)
さらに、822年の『日本霊異記』では、一言主役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆國に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者一言主を呪法で縛り、『日本霊異記』執筆の時點でもまだそれが解けないとある。(Wikipediaより)
 
時代と共に葛城一言主神の威厳が損なわれていきます。。。
 
そこで以前から気にかかっていたのが神山町神領 大埜地に鎮座する葛倉宮で祭祀されている神、
「葛木男神(かつらぎのおのかみ)」。 : 葛城一言主神???
 
この葛木男神も土佐に移動しています。
 

 

 
そして大宜都比売命の伴神である大麻比古神が板野郡に降臨していますから、葛木男神も板野郡に坐した可能も無くはありません。
 
そこから考慮すれば葛木男神その人、若しくは一族から出自した「鴨族」の中から選ばれた者が「葛城一言主」という役職に就任していたのではないかと考えてみたのです。
 
大麻山と天円山を挟んだ位置にそれぞれ鎮座する葛城神社(三社)も葛木男神の末裔が祭祀されたものではないかのかと…
 
やはり時代と共に「一言主(神)」の権威が落ちているのは、「一言主命」が役職であるからでしょうか。。。
 
大麻比古神に続き、葛木男神も強引ですが神山から板野郡に引っ張ってきました。
とりあえずここから板野郡の葛城神社を読解していければと考えています。
 
天智天皇の件は現在のところ天智天皇葛城皇子)の伝承と葛木男神から派生した葛城一族の祭祀が混同して現在に継承されているとしておきます。 
 

当件、継続調査できるか自信ないなぁ〜。
気長にお待ち下さいませ。