awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

大宜都比売命と壹與と乃良根公と。

 

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今回は私の稚拙な想像レベルの話ではなく、毎回キレッキレの考察でとてもわかりやすい"乃良根公(のらねこぶるーす)氏"の文言を借りて話を進めさせて貰います。
 
乃良根公氏が綴る超有名blog 「空と風」。
阿波古代史を学ぶには欠かせません。
当blogを読むより乃良根公氏のblogを読んだ方が格段に勉強になりまっせ☆
 
と、まぁ大宜都比売命と壹與が同人物である内容を自らで書きたかったのですが単純かつ明快に記すことはできませんでした。
 
それは乃良根公氏の説明を読んでしまったから。これを読んだらふつーに自分で書くことができなくなってしまった…。)
 
まぁわたしの前フリはどうでもいいので、まずは以下の内容を一読して頂きたい。
※ 注:ちょっとだけ変えている部分がありますがほとんど原文のままです。
 
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全国稲荷神社の総本社は、伏見稲荷大社である。
祭神を狐だと思っているレベルの者は別にして、宇迦之御魂大神はその名の通り食物神であり、=保食神豊受大神=大宜都比売であるが、ではその国名であるとまで古事記に書かれた阿波国とのつながりは?例によって日本国中総スルーであった。そこに歴史の宝の山が眠っているのに、である。
私の見解は、いわゆる魏志倭人伝については「卑弥呼天照大神」説に立っている。
その場合、どうしても考察を避けられぬのが、卑弥呼以前の男王、卑弥呼亡き後の男王、卑弥呼の後を継いだ壹與(トヨ)が、それぞれ記紀の側の「誰」に該当するのか?という点である。
既に私がブログに書いてきたとおり、卑弥呼天照大神が伊耶那美命であると仮定している。
そして、次代の男王は、血筋から言って、伊耶那岐命須佐之男命のどちらかであろうと考察してきた。
伊邪那岐命が後に高木神という名で、まだ幼い二代目天照大神(壹與)を補佐したことも書いた。
今回、ぐーたら氏の考察によって、その男王が須佐之男命であった可能性が極めて高まったと言えよう。
では、
壹與(トヨ)とは、いったい誰なのか?
豊(トヨ)受大御神である。

古事記』では豊宇気毘売神と書かれ、別字では、豊受気媛神、登由宇気神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、とよひるめ(豊日孁?)など。
大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、また、保食(うけもち)神というように、「ケ」「ミケ」「ウケ」が食物そのものを指す。
「トヨウケ」「トユケ」はそれぞれ漢字は当て字(表音文字)で、「トヨ」という名の「け」(食物)の神、という意味である。
大宜都比売は、尊称・諡号で、大いなる「け」(食物)の神、という意味である。(「ツ」は助詞の「の」)
つまり、その個人名は「トヨ」である。
伊勢神宮に対する一般的な認識は「皇祖の天照大御神」をお祀りしている、というものだが、少し神社に詳しい者ならば、内宮と外宮に格式の差はない、ということを知っている。
内宮と外宮に、二人の天照大神を祀っているのである。
外宮では、御祭神は「豊受大御神」となっている。「大御神」とは、現在で言えば「天皇」と同じ称号。皇統につながる「大王」に即位した人物にのみ用いられるのである。
天照大御神の他には、伊邪那岐命、阿遅志貴高日子根神も、こう呼ばれている。
『続・阿波国風土記』の一節を思い出そう。
天津國玉神ノ御子 天日鷲命ハ 即日向皇子ニテ 是天石門別神 其御霊ヲ倭大國玉神トイフ
天石門別神 櫛磐竃神ノ后神ヲ 天石門別八倉姫トイフ 
「鳥の一族」と合わせて読み直してもらいたい。
天日鷲命は、大国主命である。その后神、天石門別八倉姫とは大日孁女命(天照大御神)であった。
すなわち、二代目天照大神豊受大御神=大宜津比売神、である。
大巳貴命(山幸彦)は、須佐之男命の子で、須佐之男命の第一後継者候補であった異母兄の天村雲命(海幸彦)を抑えて、大国主となった。そして、当時の王家の通例に従って、異母妹であるトヨと結婚したのである。
天石門別八倉姫神社の御祭神は、二代目天照大神こと、壹與である。
初代天照大神卑弥呼)亡き後を継いだ女王・二代目天照大御神とは伊予国から阿波国へ連れて来られた13歳のスーパーシャーマン(壹與)である。
壹與(イヨ)はその後、臺與(トヨ)と呼ばれたが、これが豊受大神阿波国神大宜都比売である。
壹與を伊予から連れてきたのは西照神社由緒にある通り月読尊である。
「西照」とはもちろん「西の天照」という意味である。

社伝で月読尊が連れてきた田寸津姫というのが瀬織津姫とも呼ばれる壹與であった。
月読尊が治めていた夜の食国(よのおすくに)とは予(州)の食国であり、夜はヨに対する当て字(表音文字)であると同時に四国において日の昇る東の国に対する日の沈む方向の夜国という意味の表意文字である。
伊予国風土記「天山」にあるとおり伊予天山のある地域を阿波王族と血縁関係をもつ一族が治めていた。壹與が卑弥呼の宗女と云われる由縁である。
 
どうでしょう。ここまで納得いく説明があるでしょうか。
 
まるまるそのままで "のらねこぶるーす氏" の文言を引用しているので、氏からは
「ちょっとは自分で説明してみろよ!( *`ω´) 」
などとお叱りの言葉を貰いそうですが… 。( ;´Д`) 汗汗汗
 
という訳で私は大宜都比売命と壹與は同人物と考えるのです。
が、、、乃良根公兄貴に怒られそうなので、ちょっとだけ自説を入れておこうと思います。(テヘペロ)
 
大晦日にバタバタしながら書いた大宜都比売命と伊邪那美神の話ですがもう一つ逸話がございます。
 
「高越山は大滝山と石の投げ合いをした。」
 
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これは高越大権現と西照大権現との争いごとの伝承。
壹與こと大宜都比売命が伊予に行幸した際に神山から忌部山を抜け、脇町 大滝山越えで瀬戸内海に出て伊予三島を行き来していたこと。
 
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そして神山から以西(いせ)神宮である天岩戸別神社(もしくは嵯峨天一本宮)こと天石門別豊玉比賣神社(外宮)と天石門別八倉比賣神社(内宮)で豊受大御神天照大御神を祀ったこと。
 
 
神山町から入田町、一宮町、そして佐那河内村から抜けた合流地点である八万町 宅宮神社に壹與の痕跡が残されているのもそのため。
 
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という訳で天石門別豊玉比賣神社に祀られていた豊玉比賣も壹與こと大宜都比売命と考えるのであります。
 
あとは長国からの和奈佐翁ルートの解明を急がねば。今日は仕事始めでお疲れなのでここまで。
 
 
追伸:
乃良根公 兄貴、阿波古代史道場の文言を収集して勝手に引用させて頂きました。
ありがとうございました。内容に問題あれば連絡して下さい〜。