awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

行基と空海 阿波での目的は?

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行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) - 天平21年 2月2日(749年2月23日)は、奈良時代の日本の僧。僧侶を國家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿內(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。
また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための佈施屋9所等の設立など數々の社會事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に數えられている。(wikipediaより)

さて、この行基という人物は本当に1人ですか?と疑いたくなるほど広範囲をまわって伝承を各地で残しておます。

そして誰かとリンクしませんか?

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空海です。

阿波の事を調べていくと行基と空海の行動と業績がかなり深くリンクしているのがわかります。

実際には空海の方が四国八十八ケ所参りの創設があるからして実績が大きく受け止められていますが、ある意味行基の方が業績としては大きいのです。影の立役者と云えるでしょう。

それでは行基の開基した仏閣を紹介していきます。


【行基が阿波で開基した仏閣】 

(上記の寺は空海の開基と思っている人が多いのでは?)


【行基所縁の仏閣】

(各寺の所在地をみて阿波古代史のとある場所とリンクする方も多いのでは?)

awa-otoko.hatenablog.com

例えば童学寺空海が幼少の折に学問を学んだ寺とされていますが、空海は讃岐の佐伯氏の出自で幼少時は阿波には入国していなかったでしょう。

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それでは何を学んだか?もしかすると行基の目的とすることを学んだ場所とは考えられないでしょうか。。。

また童学寺のすぐ南側には最古の寺跡と伝わる石井廃寺跡があります。

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このような由緒ある寺で空海ならびにエリート僧が、とある目的のために収集され学んだ可能性も。。。

阿波古代史を調査している者にとっては阿波の札所は古代天皇の御陵跡や御所跡に建立されていることは有名ですが、この内容から行基が開基した仏閣に空海が目的を同じくして訪れ、さらに何かを行ったと考えられます。

さらに空海が創設した四国八十八ヶ所の真の奥之院は剣山 龍光寺とされ、その龍光寺も行基が開基した仏閣なのであります。

awa-otoko.hatenablog.com


この内容を信じるのであれば龍光寺は古代天皇のルーツが隠される場所と考えるのは深読みし過ぎでしょうか。


さて、そんな謎が多い行基の系譜について簡単に調べてみました。実は行基、「わに」の子孫であります。

又、科賜百濟國、若有賢人者、貢上。故受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十卷・千字文一卷、并十一卷、付是人即貢進。
天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。その命を受けて〔百済が〕献上した人の名は和邇吉師(わにきし)という。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻をこの人に附けて献上した。

王仁(わに)とは百済から日本に渡來し、千字文論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物である。『日本書紀』では王仁、『古事記』では和邇吉師(わにきし)と表記されている。

王仁応神天皇 皇子 菟道稚郎子(うじのわきのいらつこ)の師でもありました。

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 このように行基は先祖の王仁天皇や皇族の繋がりから、倭の歴史に関して多くを聞かされていたと考えられます。

行基も空海も阿波で何らかの目的を持って行動したことは明らかです。

残念ながら行基と空海の伝承は混同されていることが多く調査はままならない状態ですが、もう少し踏み込んで調査を継続したいと思います。