awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

義人の社(石井町 五社神社)

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今回は記紀の物語に関係ない神社の紹介となります。

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石井町に鎮座する五社神社は、祭神は山口吉右衛門命、山口市左衛門命、後藤常左衛門命、後藤京右衛門命、宮崎長兵衛命。
 

藩制中期の宝暦6年、徳島藩の藍作行政に抵抗して吉野川中・下流の農民が起こした大規模な百姓一揆、これを五社宮一揆、藍玉一揆という。

 
鮮やかな紺色の阿波藍は、江戸時代における阿波藩最大の財源で、徳島藩は藍葉生産農家からは藍葉売買税(藍作税)を搾取し、藍葉を購入加工販売する藍師には特権(玉師株制)を与えて巨額の冥加金を得ていました。
藍師は藍葉を独占的に買い受ける特権があったことから、農民は常に藍葉を安く買いたたかれ、さらに藍作税は重くなる一方だったのです。
 
このような過程から、農民の不満は次第に募り、折しも宝暦6(1756)年、藍葉は凶作。これが阿波藩最大の百姓一揆(藍玉一揆)の引き金となったのです。


宝暦6年。10月ごろ名西郡内の農民は日が暮れてから神社や森に集合し、一揆を画策する密談を交わしていました。
徳島藩も農民の不穏な空気を察知して密かに探索を開始し始めました。
 
11月になって名西・名東・麻植・板野の農民に寺院を通じ、「兼藍売買に対する苛酷な税の撤廃と玉師株制度の廃止を要求するため、来たる28日を期して、ほら貝・鉦・太鼓を合図に、簑(ミノ)笠を着用、竹槍・棒・鎌などで武装して、鮎喰川原に集合し、城下へ押し寄せるよう。」との廻状が廻されたのであります。
 
「廻文 
一、藍四匁掛り二十四五年に罷成候処、亦々去る戌年より藍園作人藍玉株に候仰付、困窮の上凶作と相成り、御 年貢上納難相調、親妻子牛馬等も養ひ難く、北方作人共一同申談之通り来る二十八日鮎喰川原へ出合可申候、其 村々作人共螺鐘太鼓聞合せ、残らず蓑笠杖面々名を書付け其村々の印を致し可申候此廻文村々寺々に相廻はし可 被成若し相滞り候はば其寺を早速焼討に致し可申候 已上 
子閏十一月  総作人共                                
 麻植郡 
 名西郡 
 名東郡 
 板野郡 
口書之通り地方従前諸事高懸りもの、往古より多く罷成り依って作人共困窮に付、来る二十八日鮎喰川原へ寄合 可仕約束無相違出合可申候村々寺々檀中へ吹聴被成候て刻付いたし急度御廻し可有候、右の通りの次第人々其用 意可有事、今日より次第に先々へ刻付被成、来る十五日迄に可取届候、尤も人数行暮れ候節は藍師方へ申置可被下筈、其節道筋何れにても横領ケ間しき義致し申間敷候、奥野村迄、」 
 
しかし、この企ては密告によって失敗。
主謀者である高原村 後藤常右衛門・同京右衛門・山口吉佐衛門・同市左衛門・宮崎長兵衛の5人は捕えられ、翌年3月25日に鮎喰川原で処刑されることになりました。
 
処刑の当日は刑場に数万の民衆が集まり、その壮烈な最後になみだを流して悲しんだそうです。
そして犠牲となった5人を神として祀り、五社明神として祭祀したのであります。
 
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五社神社の経緯
・宝暦6年(1756)11月藍玉一揆起こる。
・宝暦7年(1757)3月25日主謀者処刑される。
天明元年(1781)25周忌に五社明神として祀る。
・寛政元年(1789)33回忌に社殿を建立。
・寛政6年(1794)融(とおる)大明神と改称する。
嘉永5年(1852)罪人を神として祭るは不都合であると社殿を焼き、祭祀を厳禁する。
明治元年(1868)再び小祠を建て、天満天神と称して祭る。
・明治12年(1879)11月、公許されて社殿を建立、五社神社と称す。
・大正15年(1925)高原村社に列せられる。
この一揆で徳島藩は農民の力を恐れ、要求を容れることで収束しようと考えました。
玉師株制度の廃止を実施し、結果的に五人は死を持って目的を達成させたのであります。
 
明神とは怨みや無念の死を持った者を神としていることが多く、怨みのパワーを御神威としている場合があります。
 
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関東を護る平将門神田明神もそうであるように、五社明神(神社)も名方郡(名西郡名東郡)を守護しているのかもしれませんね。