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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

王の中の王(宇志比古神社)

日本一社 板野郡 古墳、板碑
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阿波で現存する神社本殿では最古にあたる宇志比古神社。2000年に国の重要文化財に認定されております。

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社殿は少し奥まった板野郡大谷の山際に鎮座しています。

創祀年代は不詳。
式内社・宇志比古神社の論社の一つで、天正年間(十六世紀末)長曽我部元親の乱入により社殿、古記録、社宝を焼失しましたがのちに再興されています。

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祭神は宇志比古尊、応神天皇仁徳天皇神功皇后

ところで宇志比古尊とは誰か… 
ずばり言うと、

丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうしのきみ)」。


またの名を

丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)」。

記紀等に伝わる古代の皇族で、まさしく神社名のごとく「大人(うし)」なのであります。

日本書紀崇神天皇10年9月9日条では丹波道主命丹波に派遣するとあり、同書では北陸に派遣された大彦命、東海に派遣された武渟川別、西道に派遣された吉備津彦命とともに「四道将軍」と総称されている。その後、将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した。
また同書垂仁天皇5年10月条によると、皇后の狭穂姫命が兄の狭穂彦王の謀反にあたって自殺する直前、天皇丹波道主命の女5人を後宮に入れることを進言した。その後5人のうち竹野媛は本国に返されたが、日葉酢媛命は後皇后となり景行天皇倭姫命らを産んだという。
一方『古事記』では、丹波に派遣されたのは丹波道主命ではなく父の日子坐王(彦坐王)とされ、事績に関する記載はない。(Wikipediaより)

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この方は阿波独特の氏族である「息長(おきなが)」の直系。

崇神天皇の弟、日子巫王(ひこいますのみこ)と息長水依姫の御子にあたります。
かの神功皇后も諱は息長帯比賣(おきながたらしひめ)。
息長は古代倭(阿波)出自の海人族なのです。

そもそも通説では丹波道主命丹波に派遣されて丹波に留まった感を匂わせていますが、海人族の大王であった丹波道主命は行き来していただけでしょう。
やはり阿波を活動の拠点としていたようです。

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まぁ、神社本殿下の古墳を掘ればはっきりすることなんです。(無理ですが…)

この板野郡大谷付近は古墳がごろごろ存在する古代からの霊地。

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その中でもこの宇志比古神社は特に一等地で造営された古墳であると思われ、まさに「宇志(大人:うし)」であり、「比古:(彦、比古、日子、毘古)」は、男子人名の語尾に付けられる名称の一つで、古くは地域の男性首長や貴族を表す尊称。

丹波道主命」は王の中の王として往時に勢力を誇っていたと思われるのです。