読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

奈良の地名(市場町 奈良坂)

阿波郡 阿波の神社巡り
 
記紀において崇神紀十年に那羅山、垂仁記に那良の戸、応神記に那良山、仁德記に那良•那良山•那良の山口などを確認することができます。
これらは全て阿波の奈良街道沿いの地名と考えられ、「那良(奈良:なら)」の原意は「水の清らかな地」からきているように考えられるのです。
 
f:id:awa-otoko:20150323084116j:plain
 
阿波では吉野川に面した穴吹町(旧拝村)に「奈良坂」、川島町(旧児島村)に「奈良」、市場町(旧尾開村)に「奈良坂」の地名が残っています。

f:id:awa-otoko:20150323083934j:plain
f:id:awa-otoko:20150323083959j:plain
f:id:awa-otoko:20150323084032j:plain
 
市場町奈良坂は香川県津田町(旧難波郷)に通じる通称 奈良街道の入り口にあたり、西隣りには「大門」の地名も残ります。
 
f:id:awa-otoko:20150323092107j:plain
 
奈良坂の東にある広大な高台には、応神天皇の三皇子である「大山守皇子(おおやまもり)」菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこ)」「大鷦命(おおさぎ)(後の仁徳天皇)」を祀る「若宮皇太神宮」が鎮座しています。
 
菟道稚郎子皇子は、百済から渡来した阿直伎(あちき)及び王仁(わに)を師(みふみよみ)として典籍(ふみ)を学んだと応神記にあり、その学問所が対岸の川島町の学にあたります。また、川島町 学には菟道稚郎子皇子を祀る王子神社も鎮座しており、その存在を今に伝えています。
 
大山守皇子皇位を狙ってたので宇治の渡で殺され、その骨は那良山に葬られたとあり、その那良山は日開谷の東にそびえる城王山、または九王野山と推定されています。
 
大鷦命仁徳天皇に即位し、阿波、讃岐、淡路島を行ったり来たりしています。女性のために。(これは後々アップします)
 
「阿波誌」の阿波郡日開谷の項の「大楢山(おおならやま)」はそのいずれかを指していると見え、香川県との県境の峠の地名である「大影(おおかげ)」は
「旧大楢なりしか明暦元年(一六五五年)より大影と改む、この地讃岐境にて土地入組み境界分り難く阿讃両国遂に訴訟となりしか当国の勝訴となり大奈良七百余町を当国の有と確定せしなりと」
とあります。
 
大影の東の峠に鎮座している熊野神社の棟札(延享年間)には「大奈良三所権現」と記録され、さらには香川県側にも「大楢(おおなら)」の地名が残っていることから、この街道の地名が「奈良」であったことは間違いないようです。
 
そのほかに現在は「平山(ひらやま)」と呼ばれる平野部に突出し頂上部が平らになっている複合扇状地の高台、「大寺字平山」、「吹田字平山」、「犬伏字平山」、「羅漢字平山」などが板野町から阿波町辺り、東西に30㌔間に走っています。これは古くは「平山」は「ならやま」と呼ばれたことが万葉集から伺うことができます。
玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従 (或云 自宮)阿礼座師 神之[盡] 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎 (或云 食来)天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超 (或云 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而)何方 御念食可 (或云 所念計米可)天離 夷者雖有 石走 淡海國乃 樂浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者 此間等雖聞 大殿者 此間等雖云 春草之 茂生有 霞立 春日之霧流 (或云 霞立 春日香霧流 夏草香 繁成奴留)百礒城之 大宮處 見者悲 [毛] (或云 見者左夫思毛)
玉襷(たまたすき)畝火の山の 橿原(かしはら)の 日知(ひじり)の御世(みよ)ゆ (或は云はく、宮ゆ) 生(あ)れましし 神のことごと 樛(つが)の木の いや継(つ)ぎ嗣(つ)ぎに 天の下 知らし食(め)ししを (或は云はく、食(め)しける))天(そら)に満(み)つ 大和を置きて 青丹(あをに)よし 平山(ならやま)を越え (或は云はく、そらみつ 大和を置き あをによし 平山(ならやま)越えて)いかさまに 念(おも)ほし食(め)せか (或は云はく、念(おも)ほしけめか)天離る 鄙にはあれど 石(いは)走る 淡海(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らし食(め)しけむ 天皇(すめろぎ)の 神の御言(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生(お)ひたる 霞立つ 春日(はるひ)の霧(き)れる (或は云はく、霞立つ 春日か霧れる 夏草か 繁くなりぬる))百磯城(ももしき)の 大宮ところ 見れば悲しも (或は云はく、見れば寂(さぶ)しも)
原文なので読みにくいですが、この歌の前半は奈良大倭への遷都に反対する人麻呂の心中が表されています。
 
初代神武天皇の御代から歴代の天皇が次々にここで天下を治められた、この神々の鎮まる倭を棄て、一体どのような考えで平山(ならやま)を越え、どこに遷ろうとされるのか… という朝意に反く歌であると解釈もできます。
 
以上のように、現在阿波では「奈良」、「奈良坂」の地名しか残されていませんが、古くは「平山(ならやま)」、「大奈良山」、「大奈良」の地名が揃っており、また「奈良」の意味も阿波郡市場町あたりの「水の清らかな地」から、地名が街道沿いや周辺の平らな台地に広がっていったため、「奈良」が平らな台地の意味に置き替えられたことが推測できます。
 
f:id:awa-otoko:20150323084338j:plain
 
このことから、平らな平野部のほとんどない阿波の宮地が、今までにない平らで広大な大倭国の盆地に遷ったために倭国(阿波郡市場町奈良台地)のような平らな地に造営された宮の意味を持つ、「奈良(平城)京」の名になったと捉えることができるのです。