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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波の豊国大明神(豊国神社)

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(現在の豊国神社:小松島市中郷)
 
前回が豊国法師をテーマだったので今回のテーマも豊国神社です。(嘘です。偶然です。笑)
 
さて豊国神社は徳島県小松島市中郷𣳾地に鎮座しています。(上の写真)

本来は小松島市中田に建立されていましたが、紆余曲折あって小松島市中郷の「堀越寺」の横に再建されたものが現在の豊国神社なのです。
 
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(豊国神社の元地:中田)
 
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(中田の元地から移動させた礎石:中郷)
 
豊臣秀吉の死後、100体造られた豊臣秀吉木像を配り、各藩は御神体として「豊国神社(正一位 豊国大明神)」を建立して祀れという秀吉の遺言から豊国神社は建立されました。
 
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特に豊臣秀吉の子飼い大名であった徳島藩蜂須賀家政も例外に漏れず阿波に豊国神社を建立しました。
しかし、それも徳川家と豊臣家の争い(大阪の陣)の真っ最中に建立していたのです。
 
そして建立当時の棟板には蓬庵(蜂須賀)家政と子の至鎮の名が記され、その姓はかつて秀吉から与えられた「豊臣」を名乗っています。
 

つまりこの時期(大阪の陣)においても蜂須賀家は豊臣の家臣であると示しているわけですね。

 
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旧主君である秀吉に対する義理立てとお祀りする傍らで、大阪の陣では戦功により淡路の国を加増。蜂須賀は阿波、淡路25万7千石の大名となっています。
さすが「古狸」と呼ばれた家政はしたたかです。(笑)
 
そんな危ない橋を渡りながら阿波の豊国神社建立は進めるわけですが、建立直後に始まった大坂冬の陣、夏の陣で大坂城はついに落城。結果、豊臣家は滅亡してしまいます。
 
豊臣家滅亡直後、徳川家康の命により各藩の豊国神社は徹底的に破壊されていきます。
 
しかし不思議なことに徳島藩の豊国神社だけは幕末まで存続していたのです。
(豊臣滅亡後、元地(中田)で30年間は祭祀存続、便宜上一度崩して現在の地(中郷)に再建している)
また100体作られた豊臣秀吉木像も存続しています。(全国阿波だけ存続)
 
徳川との体面上では家政も気を揉んだことは確かのようで豊国神社を壊した後、御神体である豊臣秀吉木像は庄屋の蔵に隠されたり、宝蔵寺(現・堀越寺)に移され、名称も変え、寺の境内の小さな祠(ほこら)に偽装されたりしていたそうです。(他国の豊臣秀吉木像は焼却処分の命が下っています)
 
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(中郷豊国神社隣 堀越寺)
 
もちろん家政が巧く立ち回ったのは確かですが、徳川幕府からの間者(スパイ)の調査や、豊国神社元地の立地条件(徳島城から南に数キロ)からして、豊国神社を豊臣家滅亡から30年も大々的に祀っていたのは異例中の異例。
 
本来なら改易や藩主の切腹が下ってもおかしくない状況だったはずなのです。
 
 
 
しかし、色々調査しているうちに何となく謎が解けてきたような気がします…
 
現在の豊国神社建立地付近には式内 天菩比命(あめのほひ)の殯宮である「御縣神社」が境内社として存在し、中田より「中湖(なかのうみ)」に至る地「千代の松原」、そして古代に「籠山(香具山:かぐやま)」と呼ばれた「日峯(ひのみね)」が聳えています。
 
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(御縣神社も中田にあったが国鉄線路建設のため、豊国神社に移遷された)
 
徳川家は「阿波古風土記」の内容を確認しており、古風土記中に記載されていた「中湖」や「天の香具山」があった当地を霊地であると認識していたのでしょう。
 
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(千代の松原)
 
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(小松島大神宮)
 
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(日峯山頂 日峯神社)
 
現に蜂須賀家政でさえ、徳島城の建築場所を探していた際に「日峯」も候補地に上がったようですが、「この霊地に城を築くのは畏れ多い」と辞退しているほど。
 
そんな霊地の認識を利用したのかどうかはわかりまりませんが、敢えて目を付けられていない時点で一度は豊国神社を壊し、御神体である豊臣秀吉木像の所在を不明にしました。
そして時をへて外堀がさめたところで天津神系の古代天皇所縁の霊地に豊国大明神とその他の神を含めて移動させたのでしょう。
 
このように阿波の古代史を調べていると徳島藩 蜂須賀の古代天皇痕跡の利用、隠蔽が各所に確認できます。
 
しかし蜂須賀は隠しながらでも豊臣秀吉の忠誠を忘れなかった姿勢は唯一評価できるところではあるのですが…いまいちスッキリしません。
 
その他、由緒ある古社を蜂須賀が崇敬していた八幡神社として改名させている経緯もあります。
これも蜂須賀家保身が理由としたカモフラージュかもしれませんが。
これもまたの機会に書きたいと思います。