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阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

阿波から奈良へ(大御和神社)

 
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「高天の原に事始めて遠天皇祖(すめろぎ)の御世中今に至るまでに天皇(すめら)が御子のあれ坐(ま)さむ弥継(いやつ)ぎ継(つ)ぎに大八島国知さむ次(つぎて)と、天つ神の御子ながらも、天に坐(ま)す神の依(よ)さし奉(まつ)りに隨(まにま)に、聞(きこ)し看(め)し来る此の天つ日継高御座(ひつぎたかみくら)の業(わざ)」
 
続日本紀持統天皇十一年(六九七年)八月 一日に、第四十二代 文武天皇が即位、この宣命のあとに倭(阿波)から大倭(奈良)に遷都する決意を固めました。
 
まず、即位五年(七〇一年)に修理を終えたばかりである倭の高安城を廃し、舎屋その全てを河内、大倭(奈良)の両国に移動させています。
そして「続日本紀慶雲元年(七〇四年)十一月条には、大倭の地に藤原の宮地を選定、さらには慶雲四年(七〇七年)、諸王や臣下で五位以上の人々を収集し、遷都の論議を行い、二月 九日に正式に大倭へ遷都することを決定したのであります。
 
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徳島市国府町府中の式内社 大御和神社は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されています。(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)
 
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(拝殿上の額)
 
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慶雲元年には鍛冶師に命じて諸国の印をつくらせています。
諸国印は大宝律令後に倭(阿波)の地名からつけられた新しい国々の印に使用するためであります。
 
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そして慶雲四年(七〇七年)、遷都が正式に決まった後に文武天皇は役目を全うしたかのように崩御
 
このようにして北倭(大倭:奈良)と南倭(倭:阿波)という二つの倭が存在することになったのです。
 
そして後に南北ニ倭が併合して「日本国」と改号したのはいうまでもありませんね。
 
 
 
 
おっと、、大切なことを言い忘れておりました。
今回、紹介した大御和神社はもともとは土成町の「奇玉(くすたま)神社(以前に紹介した薬王子神社こと)から移されたとの説があります。

 

薬王子大権現は古の医療の神(薬王子神社) - awa-otoko’s blog

 

「奇玉(くすたま)」とは「奇魂(くしみたま)」。
大物主神とは大己貴神の幸魂(さきみたま)と奇魂(くしみたま)であり、倭の国の三諸山(みもろやま)に住んでいる神。
 
この三諸山とは阿波市土成町宮川内にある御所山であり、御所は御諸から転訛したもの。
この御所山の山麓に浦池に奇玉神社、またの名を「薬王子神社」が鎮座しております。これは過去に紹介したように御所山の頂にあったのです。
 
そして大倭に遷都した際、この大御和神社を移動させたものが、奈良県桜井市三輪の大神神社(おおみわじんじゃ)。
 
要は「九王野神社」の祭神である大己貴神は大倭の大神神社へ移動し、もう一柱の祭神である少彦名神は最終的に美波町の「薬王寺」に落ち着いたことになります。

九王野明神(九王野神社) - awa-otoko’s blog