awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

蛇と鴨(登美の那賀須泥毘古)

長髄彦: 登美の那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)】

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もののけ姫のアシタカはナガスネヒコがモデル)
登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬いは矢に当たって負傷し、後に死亡している。
その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。長髄彦神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命ニギハヤヒノミコト)に殺された。(Wikipedia
不遇の英雄である「登美の那賀須泥毘古」は「登美毘古(トミヒコ)」、「長髄彦ナガスネヒコ)」と記されます。

「登美」は、その居住する「邑の本の号」であり、これを以て人の名としたもの。
そのことは妹が長髄媛、三炊屋媛と「登美夜比売」とも記されいることから判断できます。

「登美の那賀須泥毘古」の居住地は「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」の地名が残る板野郡板野町。また、板野郡大寺の南には「西中富」、その東の藍住町には「東中富」「富吉」の地名が分布しております。

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名前の中に「那賀」が含まれるのは「長ノ国」発祥の氏族、長族(ナーガ: 蛇)の出自だったからでしょう。(後述)

記紀には「登美の那賀須泥毘古」の出自について記述されていません。

しかし、丹後宮津藩主本荘氏の系譜「本荘家譜」には物部の祖・饒速日命の子の麻斯麻尼足尼命(うましまじ)の右註に

「母飛鳥大神之女登美夜毘売」

と記されます。

「登美夜毘売」とは、「登美の那賀須泥毘古」の妹であり、「饒速日命ニギハヤヒ)」に嫁いだ女性。
その人が飛鳥大神(事代主命)の女と記されます。
このことから、

「登美の那賀須泥毘古」も「事代主神」の子。そして「建御名方神」は叔父に当たるということになります。


勘の利く人は気付いていたかもしれませんが、前回に紹介した「建御名方命

別名が「建御名方富命(タケミナカタトミ」、「南方刀美神(ミナカタトミ)」であることから「富・刀美」が地名「登美」をあらわし、「登美の那賀須泥毘古」に通じてくるのです。

これで「登美の那賀須泥毘古」が「事代主神」や「建御名方神」と非常に近い「長族」である接点がでてきた訳です。

もし、「事代主神」や「建御名方神」と同じ時代に「登美の那賀須泥毘古」が生きていたと仮定すると、「長族」即ち「ナーガ(蛇)族」が、神武東征に反旗を翻していたが「事代主神」と「饒速日命」が神武天皇に帰順し、「建御名方神」と「登美の那賀須泥毘古」は反抗を貫き通したことになります。

案外、帰順した事代主神」即ち「鴨(氏)」がネギを背負って神武天皇に取り入り、「金鶏」に化けていたのかも…

神武東征では「蛇」と「鴨」の明暗を分けた戦いであり、「登美」は「鳥見」。
鳥(鴨)を見守る側に徹したのかもしれません。

あ、最後まで書いて地名の話しか阿波を絡ませてないことに気付きました…(苦笑)

という訳で補足。

「登美」の後裔氏族には「中臣(ナカトミ)氏」がおります。
鳴門市北灘の「葛城神社」の祭神が「天智天皇」であり、この付近で天智天皇が落馬して目を患った伝承が残ることから、近辺の板野郡に「登美の那賀須泥毘古」の後裔、「中臣氏(那賀登美)」が存在していても決して不思議ではないのです。

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(鳴門市北灘 葛城神社 奥之院)